悲惨な交通事故から3年たった2007年。
「日本初の義手の看護師」として神戸の病院に就職した伊藤真波さんは、行きつけのプールでパラリンピックの代表選手を見て、パラリンピック出場を夢見るようになります。

2008年に北京、2012年にロンドンパラリンピック出場、世界大会でのメダル獲得と栄光を残し、2012年引退…。
そこからは新たにバイオリンにも挑戦。障がいへの理解を深めたいと、義手によるバイオリンパフォーマンスも始め、多くの反響を呼んでいます。
結婚、出産も経験し、ますますパワフルに人生を謳歌している伊藤さん。
特別インタビュー後編では、パラリンピック出場、義手をつけてのバイオリン演奏にチャレンジしたきっかけ、またご主人も交えて伊藤家の結婚生活についてもお聞きしました。
伊藤さんの「あきらめない心」の根源に迫ります。

好奇心から始まったアスリートへの道

▲「パラリンピックに出て、トップ選手のみる風景を見たかった」と語る伊藤さん

――2008年に北京、2012年にロンドンと水泳でパラリンピックに出場されていますが、その経緯を教えてください。

伊藤 神戸のリハビリステーションで入院中のときに、「心のリハビリ」の一環で「1人で神戸の町を歩いて、町の人々に私の今の姿を見せる」というものがありました。これまで自分を隠していたので、これからはあえて自分が見せたくない部分もさらけ出そうと思いました。同時に、これからはもっと辛いことが起こるし、だからこそ辛いことから逃げないようにしようとも思いました。

そうして、水着をもって三宮の福祉プールへと向かいました。5才のころから水泳はしていましたので、何とか泳げるだろうと思っていました。

福祉プールでは、パラリンピックの代表選手が練習をしていました。その風景を見ながら、自分もここで挑戦してみたい、トップに並ぶ人たちの思いを経験したいと思うようになりました。

2007年に神戸百年記念病院に就職をして、仕事をしながらパラリンピック代表選手も数名所属しているチームに入会して練習を始めるようになりました。入ったからにはトップを目指すぞという思いで必死に練習を続けていると、あれよあれよという間に代表選手に選ばれました。

――片腕で泳ぐというのは、両腕で泳ぐのと比べて大変だったのではないでしょうか?

伊藤 はい、私は水泳の基礎があったので、泳ぎ方は知っていました。しかし、両腕の時と比べ、片腕ではどうもバランスがとれず、コースロープに何度となくぶつかりました。飛び込んだときも、バランスがとれなくて、大変怖い思いをしました。

なので、まずは体幹を鍛えるところから始めました。それから、片手で泳いでいる世界中の選手のフォームを研究して、それを取り入れるようにしました。「これだ」と思える自分の泳ぎ方を確立するのにも時間がかかりましたね。

――1日の練習量はどれくらいだったのでしょうか?

伊藤 午前中は仕事をして、午後から水泳の練習に当てていました。初めは陸上でのウエイトトレーニングがあって、その後は、オリンピックを目指す子どもたちと一緒に2時間練習をしていました。1日に4~5kmは泳いでいましたね。

――そんなハードな練習と仕事を両立させるのは難しかったのではないでしょうか?

伊藤 そうですね。正職員なのに仕事は半日だったので、だからこそ、最後までやり遂げなければと思って、自分をストイックに追い込んでいましたね。

パラリンピック出場は自分に強くなるための手段

▲パラリンピック出場時の伊藤さん(画像:伊藤さん提供)

――そこまでの練習量をこなす先にはメダル獲得という目標もあったのではないでしょうか?

伊藤 それがですね、選手の時にもよく聞かれた質問なんですが、メダルを獲得したいと思ったことは一度もなかったです。パラリンピック出場は、メダル獲得のためではなく、自分から逃げたくなかった、自分に強くなるための手段でした

――どうしてそんなに強くなりたいのでしょうか?

伊藤 自分で想像できないほど辛いことがこれから待っているんではないのかな、そう思うと、逃げたり、隠れたりすると、ずっとそのままでいるように思えてしまうんです。

――でも、実際に逃げたい、やめたいと思ったことはなかったのでしょうか?

伊藤 代表の時、怪我に悩まされて、結果を出せない時がありました。水着を着たけど、ロッカー室からプールに出れず、泣きながらそのまま帰るときもありました。でも、母親から「いつでも帰ってきていいよ」と言われていたし、ロンドン大会まではやりきると自分で決めていたので、がんばることができました。

――2010年のアジアパラリンピックで、メダルを獲得されていますよね?その時、これまでの努力が報われたという気持ちがあったのではないでしょうか?

伊藤 はい、単純にうれしかったですね。私の中ではそれで十分でした。
ロンドン大会のときに最後にありがとうという気持ちを伝えたくて、両親も招待したのですが、最後の競技が終わったとき、私は両親の前で大泣きしました。後から母親に「良くも悪くも、あなたのお陰でこれまで知らなかったおもしろい世界が見れて良かった、勉強になった」と言われました。

――それは、どのタイミングでお母さまから言われたのでしょうか?

伊藤 結婚が決まったときでしょうか。その言葉をもらって、すごく嬉しかったです。

――これまでのお話を聞いていて、どうもお母さまとの関係性が強いように感じました。

伊藤 そうですね。小さいころから、私たちのために頑張ってきている母の姿を見ていましたので、私たちもお母さんを助けてあげたいという気持ちが自然と育っていきました。

ご主人との出会い、結婚…考えもしなかった相手家族からの反対

▲伊藤さんファミリー。インタビュー当日は三女を連れて来社。二人三脚で子育てをしている

――ご主人とはどのように出会われたのでしょうか?

伊藤 大阪で開催されたセミナーで出会って、最初は年下で世界観も違ったので、この人とはつきあえないと思っていました。でも、主人は、私の腕がないことに気づかず、骨折してるんではないかと思っていたそうです。逆にそんな人もいるんだと思って興味を持ちました。

――出会ってどれくらいで結婚されたんですか?

伊藤 出会ってすぐに付き合い始めて、6カ月後に結婚を決めていました。向こうの両親に挨拶にいくとき、私はパラリンピックにも出場して神戸でそこそこ知られていたので、問題はないだろうと思っていました。しかし、思いのほか、主人の家族から大反対されました。

――ご主人にお聞きしてもよろしいでしょうか? 真波さんとの結婚の決め手を教えてください。

伊藤(夫) 尊敬できるところもありましたし、価値観も近かったです。別段、彼女がパラリンピックの選手だから、有名人だからといって結婚を決めたわけではありませんでした。一緒にいることで、何となく生活感覚が似通っていたので、この人となら一緒にやっていけると思いました。

――ご主人のご家族から反対を受けたと聞きましたが、それはどういった理由だったんでしょうか?

伊藤(夫) 両親は、結婚して子どもが生まれた時に片手で子育てができるのかとか、親の障がいを理由にいじめられるのではないかとか、子どもに対しての心配が大きかったようです。あと、親として単純に自分の息子に苦労をかけさせたくないという思いもあったと思います。

▲三女を抱えながらインタビューを受けた伊藤さんのご主人

――反対されているご家族をどのように説得されたのでしょうか?

伊藤(夫) 身内に障がいを持った人がいなかったので、障がいへの無理解に原因があると思いました。ですので、彼女は障がいがあるけれどしっかりと自立していて、彼女の障がいが自分たちのとっての「障害」ではないことを何度も話しました。うちの親も彼女を見るうちに、彼女の良さがわかったのか、結婚を認めるようになりました。

――伊藤さんご自身は障がいへの偏見のようなものはなかったんですね?

伊藤(夫) ありませんでしたね。そのあたり無頓着というか。腕がないことで驚くこともなかったですね。

不慣れなところはお互いでカバー。「適材適所」の素敵な関係

▲新婚の頃の伊藤さん夫妻。お子さんが生まれる前は二人で出掛けることも多かったそう

――結婚してからの生活はどうでしょうか?

伊藤(夫) 自分が整理整頓が苦手なので、それを彼女がカバーしてくれていますし、彼女が苦手なパソコン仕事は、反対に得意とする自分がやったりしています。
パラリックの開会式出場の志望動機を2000文字くらい書かなければならなくて、彼女から聞き取って、僕が入力してまとめることをしました。苦手と思うところをできるだれかがやる形。結婚生活は「適材適所」でうまく回っていますね

――お互いにフォローしあっている関係が素敵ですね。
最初のお子さんが生まれたとき、喜びと同時に不安は感じなかったでしょうか?

伊藤(夫) いや、不安はありませんでした。ただただ、嬉しかったですね。

――真波さんご自身はなかったですか?

伊藤 いや、これまで何とかなってきたので、何とかなるだろうと思っていました。その時、主人の家族も「何かあったら言ってね」と言っていたので、義母に協力してもらって子育てをしてきました。

――第一子は子育ての知識や経験もないので、大変だったのではないでしょうか?

伊藤 そうですね。すぐに仕事が始まったので、夕方は義母が来て娘をお風呂に入れたり、平日に講演があった場合は付き添いをお願いしたりしていました。休日は主人が付き添いをしてくれていて、本当、伊藤チームで子育てしている感じです。

――今、お子さんが3人いらっしゃいますが、母親の立場になって、思うところはありますか?

伊藤 最初の子を産んだときには、「自分のお母さんみたいにできるのかな?」と思いました。あんなにがむしゃらに子どもたちのことだけを考えて、育てられるのか、自信がありませんでした。お母さんのようになりたいと思って、自分も3人子どもを産みましたが、まだまだ母のレベルには追いつけていないと思っています。

隠すのではなく自らさらけ出し、障がいへの理解を深める

▲幼稚園の子どもたちの前で障がいについて語ったばかりだと話す伊藤さん

――今、上の子はおいくつになったのでしょうか?

伊藤 6才です。幼稚園の年長になって、同じクラスの子どもたちが「なんでおばちゃんは腕がないの?」と聞いてくるようになりました。それまでも聞いてくる子はいたのですが、あまり「障がい」という意味がわからないと思ったので、適当にやり過ごしていました。しかし、5~6才は他者との関係性がしっかりとわかる時期だと思います。だから、ちゃんと説明しなくてはと思いました。

長女の幼稚園の誕生日は、親もお祝いに参加できるので、そのときに交通事故にあって腕がなくなったこと、それに対してみんなはどう思うのか、考えてもらう時間をとりました。

そして、クラスの子どもたちに「私はみんなのお母さんが当たり前にできることが、上手にできません。でもそれを娘は文句も言わずに助けてくれます。我が家では腕がないお母さんがふつうです。家族中で助け合って生活しています。」というと、子どもたちは納得するんですよね。義手をつけて隠すこともできたのですが、あえてさらけ出すことで自分のような(障がいを持つ)人がいることを子どもたちにもわかってほしかったんですね。

――そういった気持ちが講演活動につながっているのでしょうか?

伊藤 そうですね。特に小中学生の子どもたちに伝えたいですよね。

――最初の講演活動で難しいと思った点はありますか?

伊藤 自分のやってきたことを話すだけでなく、そのときに学んだことをどうやって力強く相手に伝えることができるのかが難しいですね。

――一番講演でお伝えしたいことは、やはり講演タイトルにもなっている「あきらめない心」ですか?

伊藤 そうですね。「あきらめない心」とともに、自分を支えてくれた存在に気づき、感謝する気持ちも伝えたいですね。

――それが伊藤さんの人生の教訓なのでしょうか?

伊藤 そうですね。これまでの人生で私はたくさんの人に助けられてきました。その人々に感謝の気持ちを伝え、この感謝の気持ちをちゃんと周囲の人に分け合っていくことも大切だと思います。

バイオリンを始めることになった母の一言


▲義手をつけてのバイオリン演奏

――バイオリンはいつから始めたのでしょうか?

伊藤 7才の時からですね。その頃、たまたま親戚からバイオリンをもらい受けて、かつ、母がさだまさしさんが大好きだったこともあり「さださんの曲をバイオリンで聞いてみたいな」なんていうもので、それがきっかけで始めました。バイオリンも10年ほど習い事として続けました。上達しないのでやめたいと思いながらも続けていたのですが、交通事故に遭って右手を切断しなくならなければなりませんでした。

切断手術をした後に、母が「バイオリン弾けなくなっちゃってね」って言ったんです。別に音大やプロを目指していたわけでもなかった。それよりも「何でバイオリンなの?」と思いました。

だって、右手がないということは、箸もまともにもてないし、字もかけませんし、ボタン掛けもできないんですよ。なのに「何で?」と不思議に思っていると、7才のころに「さだまさしさんの曲をバイオリンで弾く」と約束したことを思い出しました。それまで、いつでも弾けると思って、結局母にさださんの曲を披露したことはなかったんです。

母の少し悲しい顔を見ていて、「これはいかん」と思いました。母の願いを叶えて、母の嬉しい顔を見たくて、足でもいいからバイオリンをもう一度弾こうと思いました。

▲バイオリンを始めたころの発表会にて(画像:伊藤さん提供)

――バイオリンを弾くにあたって、特注の義手を作られたと聞いています。

伊藤 これまで、バイオリンを弾くための義手という前例がなかったので、義手の先生と手探りのところから始めました。2008年の北京パラリンピックの頃から義手を作ろうと先生と話していたのですが、そのころバタバタとしていて、2009年に最初の義手製作が始まりました。

▲義手の調整を行う義手製作の先生と伊藤さん(画像:伊藤さん提供)

――どのように弾いていらっしゃるのでしょうか?

伊藤 肩甲骨を使っています。ゆっくりの時はゆっくりと肩甲骨を動かし、早いリズムの曲では絶えず肩甲骨を動かしています。バイオリンは4弦あるのですが、最初の1~2年は2弦しか弾けずに苦労しました。

――バイオリン用の義手はどれくらいの製作期間がかかったのでしょうか?

伊藤 1年くらいでしょうか。まだ完成していません。この角度も重要で、この角度が少しずれるだけで、音が出なくなってしまいます。どの角度がよいのか、手探りしながら調整していったという感じです。だから、(バイオリン用義手の)製作は1年ですが、調整に10年かかりました
最初の義手を使っていくうちに改良したい箇所がたくさん出てきました。ですので新たに2年前に今使っているこの義手を製作してもらいました。この義手もまだまだ改良する余地があります。

▲多くの方の手によって作られた義手。これまでの義手のイメージを払拭する和柄の模様が素敵

――今、伊藤さんの横にある義手が、今バイオリン演奏で使っているものなんですね?

伊藤 そうです。和柄で、かっこよくしています。あえて、手のような形にしなかったのは、義手の存在をしっかりと皆さんに知っていただきたかったからです。義手は隠すものでもなく、かっこいいなと感じていただければうれしいです

▲伊藤さんのバイオリンにとって欠かせない義手の製作チーム

――今くらいに弾けるようになれるまで、どれくらいの期間がかかったのでしょうか?

伊藤 5年くらいですかね。2~3年は自宅でこもって練習していたのですが、この義手はいろんな方々に作っていただいたので、その方々のためにもしっかりと上達して多くの人の前で披露できるようにならなければならないと思いました。

――2019年にアメリカのオーディション番組「The World‘s Best」にも出演されています。

伊藤 講演会でバイオリンを弾いた映像を私の知人がSNSに投稿したのがきっかけです。私自身は、まだまだ上手ではないバイオリンをSNSに投稿することに抵抗があり、自ら進んで投稿することはなかったのですが、知人のおかげで世に知ってもらえる機会となりました。

――当番組では観客からスタンディングオベーションをいただきました。

伊藤 義手でバイオリンを弾くことは私にとって何もすごいことではないんです。たいして上手ではないのに、どうしてこんなに世界中が泣いてくれるんだろうって、ただただびっくりでした。バイオリンを上手に弾ける人は世界中にいくらでもいます。世界の人たちは(私が弾くバイオリンの)音色を褒めてくれているわけではなく、「あきらめない心」に拍手を送ってくれたんだなと思ったら、この義手の製作に関わってくれた人たちにも向けられた拍手に心から嬉しく思いました。


▲アメリカで人気のオーディション番組「ゴットタレント」に出場したときの模様

――今後の夢を教えてください。

伊藤 私は見える障がいなので見た目ですぐにわかって助けてもらうことも多いのですが、世界には見えない障がいや病気、心の傷を持っている方々もいらっしゃいます。そういう方々の存在を知っていただき、適切なサポートが受けられる社会にできればと思います。
また、そのような人々に、私のように障がいがあってもがんばっている存在があることを知っていただき、元気をおすそ分けできればと思っています。

――伊藤さんの力強い生き方に元気をいただきました。本日はありがとうございました。

こちらもご覧ください!
【講師特別インタビュー】 伊藤真波さん 前編
交通事故による右手切断
どんなときでも見守ってきた両親の存在

20歳の時、バイクによる交通事故で右手を切断しながらも、両親からのあたたかなサポートで自ら立ち上がり、看護師復帰、パラリンピック出場、結婚、出産…とさまざまなことにチャレンジしてきた伊藤真波さん。…

伊藤真波  いとうまなみ

元 パラリンピック水泳日本代表

スポーツ関係者・指導者

看護師を志していた途上の20歳の時、交通事故で右腕を失う。失意のどん底から、親や家族との関わりにより不安や葛藤を乗りこえ、看護師の道に進む。また、パラリンピック水泳日本代表やバイオリン演奏など、「夢や希望」を常に前向きに実現。現在、育児をしながら講演活動も精力的に行っている。

プランタイトル

あきらめない心
~前向きに生きることで必ず道は開ける~

講師プロフィールへ移動

講師が「講師候補」に登録されました
講師が「講師候補」から削除されました

あわせて読みたい



 他の記事をみる