講師特別インタビューとして、今回はパラアスリートとして活躍する官野一彦さんにインタビューを行いました。
事故による頸椎損傷、車いすラグビーとの出会いからパラリンピック出場、引退、そして新たなパラサイクリングへの挑戦まで、これまでの足跡を辿りながら、ポジティブに生きるための秘訣や挑戦する原動力についてお聞きしました。
■目次
突然の事故で頸椎損傷…泣いていた母の声を聞いて、復活を決意
――車いすラグビーに出会うまでの経緯を教えてください。
官野 まずは車いすラグビーに出会う前、事故の経緯についてお話しします。
僕は、もともと高校時代に野球をしていたのですが、その後サーフィンに転向しました。スポンサーがつくまでになったんですが、そんな矢先、2004年に静岡で練習中に事故に遭いました。頸椎を折る大怪我で、医者から「もう一生歩くことはできない」と宣告されました。
一瞬でどん底に落とされて、毎日のように病室で「死にたい」と泣いていました。しかし、母、泣いている自分の横で「何言ってんのよ!」と言いながらケラケラ笑っているんですよ。
「母親なのに、何で自分の気持ちを理解してくれないんだ」と正直腹立たしくなって…。
事故して5日目の夜だったかな。僕はその時首を固定されていたので、病室の天井しか見えなかったのですが、奥の方からから一緒に寝泊りしていた母のすすり泣く声が聞こえてきました。僕を落ち込ませないために気丈に振舞ってはいたものの、正直母も辛かったのだと思います。
高校3年間は野球強豪校に電車通学していたので、朝6時の電車に乗り、夜は終電に乗って深夜12時頃に帰宅するような生活でした。それでも、看護士をしながら母は毎朝5時に起きてお弁当を作ってくれ、僕が帰宅するまでご飯を作って待っていてくれました。
これまで陰ながら支えてくれた母の姿が思い出され、自分が情けなくなりました。
「このままではいけない、母を悲しませたくない」
そんな想いに駆られ、翌日、医者に「早くリハビリをさせてください」と言いました。
リハビリといっても、頸椎損傷で寝たきりの状態なわけですから、最初は、ベッドを起こすところから始めます。初めはそんなの簡単だと馬鹿にしていましたが、ベッドを20度起こしたところで失神しました。
――それは、体が動かせなかったからですか?
官野 いえ、起立性低血圧症です。長い間寝たきりだったので、いきなり体を起こされて血圧の調整がうまくいかなかったみたいです。最初の半年間は、この低血圧症との戦いでした。自分で車いすに乗れるようになったのは、入院して4ヶ月あたりかな。僕は胸から下が麻痺していて、自分で起き上がることができません。手で起き上がるところからリハビリを始めて、車いすに乗って、トイレに行って…など、自分で日常のことができるようになるまで11ヶ月ほどかかりました。
それから、1年後くらいに、福祉車両店の駐車場で同じ車いすに乗った男性に「車いすラグビーを知っていますか?」と声をかけられました。家が近いこともあって、意気投合して連絡先を交換しました。家に帰って調べてみると、2004年アテネのパラリンピックで日本の車いすラグビーチームが初出場してるんですよ。これだったら、自分も出れるんじゃないかと…。そう思ったのが、車いすラグビーを始めたきっかけでした。
――車いすラグビーは激しい競技だと思うのですが、正直最初は怖くなかったですか?
官野 そうですね。車いすで体当たりされた時は正直ビビりました。でも、それが逆に新鮮でした。
車いす生活をしていると、どこに行っても腫物を触るように周りの人が気を遣ってくれるんですよ。携帯落としたら、すぐに拾ってくれるとか。とてもありがたいことではあるのですが、それくらいは自分でもできます。「障がい者」への優しさに何か違和感を覚えていました。
そんな時に、車いすで体当たりされて、邪魔をされても助けてくれないわけですよ。自分一人で何とかしなければならない。そんな過酷な環境が新鮮で、一方で心地よくさえもありました。それに、あのハの字型した車いすだとコート内を自由に動け回れるので、とても解放的でした。そこから、車いすラグビーの魅力にどっぷりとハマっていきましたね。
日本代表からまさかの落選…行動や意識を変えた師の言葉
――それから、日本代表選手に選ばれるまでは順調にいきますよね?
官野 2006年から始めて2007年に日本代表に選出されたので、そこまでは順調でした。ところが、2010年に一度、代表から外されました。自分の代わりに、自分より若い選手が選ばれたわけですから、かなりへこみましたね。
代表には外されましたが、強化選手ということで合宿には参加するわけですよ。合宿に参加していると、トレーナーがマッサージに来てくれたり、今後のトレーニングについてやたらと話しかけてきました。試合も出れないのに、「何で話しかけてくるんだ」とふてくされていました。あまりいい顔しない私にトレーナーは声掛けをやめることはしませんでした。そんな時、勘違いかもしれませんが、「もしかしたら皆から戻ってこいって言われているのかも」と思いました。そう思うと、何だか自分が情けなくなってきました。
また、ちょうどその頃、パラアスリートのスポーツメンタルの先生である日本大学の橋口泰一先生と出会いました。橋口先生に「官野さんの夢は何ですか?」と聞かれ、「パラリンピックに出ること」と答えました。すると橋口先生は「その夢は叶いますか?」と聞き返してきました。すぐに「はい」とは答えられませんでした。
橋口先生は「それは”夢”だから叶わないんです。でもそれを”目標”とすればどうですか?」と…。衝撃を受けました。
「夢を目標にかえれば、逆算して計画を立てることができる。官野さんはパラリンピックに出たいと言っていますが、そのためには後1年半ある。1年後何をすべきですか?半年後はどんな自分になっているべきですか?」
橋口先生に指摘されて、これまでの自分はただ漠然と夢を持っていたことに気が付きました。パラリンピックに出るためには、1年後予選に勝たなければならないし、そのためには遅くても半年後には代表復帰してなければならない。そう考えると、自分に足りないところと強みもわかり、第三者的な視点で自分の状況がわかるようになりました。
最終ゴールを見つけると、次々に中間で達成しなければならない目標を見えてきて、具体的に何をすべきかがわかるようなりました。自分の弱さをようやく消化できることができました。
――自分の弱さを認めるのは大変辛いことだと思います。
官野 僕は早くに代表に選ばれて有頂天になっていたのだと思います。アスリートとしての自覚を忘れていた。当時、タバコは吸っているし、太っていたので走るスピードも遅かったです。
「自分はダメな奴なんだ」そう思ってからは、早かったです。そこから仕切り直しました。まずはタバコをやめて、毎日10km以上走り込むようにして、減量もしました。
意識が変わると行動も変わる。行動も変わると結果もついてくるようになったのです。
その半年後に日本代表に復帰して、一年後に予選出場できました。
パラリンピック初出場、銅メダル獲得、その次は…?
――そして、ようやく初のパラリンピック出場となるわけですね。
官野 初出場で大会4位となりました。出場はできましたが、もう少しでメダルが届きそうなときに踏ん張れませんでした。というのも、その時の目標が「パラリンピックに出場すること」だったんですね。ただ、世界4位というのも大変なことですよね?だから、その時点では「世界4位」ということも誇らしいことと思って帰国しました。
そこで待っていたのが、メダリストを迎えるマスコミやファンたちの群衆です。帰国する飛行機には私たちのチーム以外にもメダルを獲得した選手も多く乗っていました。
成田空港につくと、その選手から先に出るよう指示がありました。たくさんの歓声に迎えられるメダリストたち。その後を僕たちは気後れしながら通るわけですよ。あんなに努力して世界4位なのに、なぜこんなにも態度が違うのかと…。「次は絶対メダルを獲ってやる!」と奮起し、それが次の目標になりました。
――2016年リオデジャネイロ大会ではついに銅メダルを獲得となりました。その時はどんな気持ちでしたでしょうか?
官野 第3位決定戦はカナダと当たりました。2点差で勝っていて試合終了のブザーが鳴った瞬間、仲間と抱き合って喜びました。心から「生きててよかった」と思いました。
言葉では表せないくらいの幸福感と達成感が一気に押し寄せて、感極まった状態で、表彰式に臨みました。メダルを首にかけられて、その重みを感じていると、銀メダルをとったアメリカの選手が悔し泣きしている姿が目に入りました。アメリカは3度の延長の末1点差でオーストラリアに負けました。一方で、金メダルのオーストラリア選手は、表彰式の最後で自分の国歌を誇らしげに歌っていました。その姿をみて、正直「カッコいいな」と思いました。次の東京では自分たちがこの台に立って東京で『君が代』を歌いたいと…。そうすると、次の目標は「東京大会で金メダルを獲得すること」となりました。
――リオ大会が終わってから、プロに転向して渡米されたようですが、その時の様子を聞かせてください。
官野 当時、お役所務めをしていたのですが、練習の時間を確保できなくなり、自分でスポンサーを探してプロに転向しました。その頃、日本には車いすラグビーのチームは10チームほどしてかありませんでしたが、アメリカは60チームもあるわけです。アメリカには外国から助っ人選手も来ているくらいでしたので、自分を強化するには渡米が必須でした。体の大きいアメリカ選手たちに、自分のレベルがどこまで通用するのかも知りたかった。それで、あるチームから声をかけていただいて、渡米が決まりました。
日本では室内で走り込みをしていたのですが、アメリカでは屋外、例えば海岸沿いとかで、他の人と一緒に走ったりするんです。フロリダの気持ちよい風を受けながら、時に海面で跳ねる野生のイルカを見たりして…。その解放感がたまりませんでした。試合であちこち世界を回りましたが、自分の知らないことはまだまだたくさんあると感じました。
チームでは、試合にも何度か出させていただき、自分の力がまだまだ世界でも通用することがわかりました。文化や言葉、環境の異なる場所でのプレーは良い意味での刺激を受けました。
代表落選、うつ病の発症…引退を決意した背景
――帰国後、次は東京パラリンピックという時でしたが、昨年引退されましたよね?差し支えなければ、その理由を教えてください。
官野 実はうつ病にかかりました。
役所を辞めて、2年間アメリカに行き、ただ東京パラリンピックを目指して頑張ってきました。それにも関わらず、2019年の日本代表強化合宿にも呼ばれなくなりました。何とか代表復帰を願って、監督の期待に添えるようなプレーをしようとしていました。そうやって焦って焦ってプレーしているうちに、自分がどんな選手なのかもわからなくなってしまった。そこからスランプに陥りました。
頑張れば頑張るほど、パフォーマンスは落ちていくし、自分を見失ってしまいました。ラグビー用の車いすに乗ると冷や汗が出て、動悸が激しくなる症状が出始めました。何をやっても裏目に出てしまい、ミーティングに出るのも辛くなってしまった。でも、ここで逃げたら、ずっと逃げ腰になってしまう。だから、2020年1月の代表選手合宿に復帰できるように頑張ると覚悟を決めました。
そこからは、一人誰もいない体育館でただひたすら泣きながら走りこんでいました。2019年12月26日に代表選手の名前が発表されたわけですけど、そのリストに僕の名前がなかった。その時、何かがパーンと弾けました。「これで終わったな」と。
――できる限りをつくしたから、やり残したという気持ちはなかったのではないでしょうか?
官野 そうですね。朝から晩までとにかく走りこんで、やることはすべてやり尽くしました。だから、悔しさはありませんでした。
挑戦する限り、負けではない
――ただ、ここで終わりじゃないところが官野さんの強さだと思います。すぐに種目を変更して、今でもパラリンピックを目指していいらっしゃいますよね?
官野 そうですね。アメリカにいる時から「ラグビーは2020年の東京パラリンピックまで」と決めていました。アメリカで他の文化を感じ、己の無知さ加減を知ってから、新しい世界に挑戦したいという気持ちもありました。引退を決めてから、次に自分にできる競技を探し、パラサイクリングに転向しました。
――それほどまでにストイックにスポーツに打ち込む原動力とは何でしょうか?
官野 自分の原動力はすべて反骨心から来ています。ケガした時も「ここで終われない」と思ったし、代表選手から外れた時も「次は見返してやる」とも思いました。瀬戸際に追い込まれるほど対抗心に駆り立てられるのです。
今回、東京パラリンピックに出られたかったことは、「次のパリパラリンピックで何とかメダルをとってやろう」という反骨心につながっています。自転車競技にした理由は、僕の障がいクラスでパラリンピックに出場した日本人がおらず、メダルを獲りやすいと思ったからです。次のパラリンピックでもしメダルを獲ることができれば、この東京パラリンピックに出れなかったということは、次のステップへの助走になるわけです。
――官野さんの目を通せば、ネガティブなこともポジティブに変わるのですね。
官野 ネガティブなことをそのままネガティブなまま受け入れたら、本当に負け犬になると思うんです。諦めればそれで終わりだけど、続けていればそれで負けにはならない。最終的に勝てばいいですから。
僕の中で、「挑戦を止める」というのは負けることになる。東京パラに出られなかったことはうつになるほど辛かったことですが、それがもしパリ大会で出場できれば、この出来事も決して無駄にはならないと思います。
――それでは最後に講演でお伝えしたいことはありますか?
官野 障がいというとネガティブなイメージがありますが、僕は障がいは強みだと思っています。ネガティブと思っていることはネガティブではなくて、思い様によってはポジティブにもなれる。自分がコンプレックスに思えていることも、角度を変えて見てみれば実はチャームポイントになっているかもしれない。
――ただ、ネガティブ思考をポジティブ思考に変えるのはなかなか難しいですよね。
官野 実際に簡単なことではないと思います。ただ、僕のような生き方をしろというのではなく、こんな生き方をしている人間がいることを一人でも多くの方に知っていただき、皆さんに少しの勇気を与えることができればと思っています。
――本日はありがとうございました。
官野一彦 かんのかずひこ
車いすラグビー銅メダリスト 障がい者実業家・ライフクリエーター パラアスリート
サーフィン中の事故(22歳)で頸椎を損傷、車いすラグビー開始。1年後日本代表選出、パラリンピック2大会(ロンドン、リオ/史上初の銅メダル)出場。2020年引退。現在はパラサイクリングでパリ大会を目指す。また、ユニバーサリージム運営、バリアフリー住宅アドバイザー、啓発講演など精力的に活動中。
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