20歳の時、バイクによる交通事故で右手を切断しながらも、両親からのあたたかなサポートで自ら立ち上がり、看護師復帰、パラリンピック出場、結婚、出産…とさまざまなことにチャレンジしてきた伊藤真波さん。
「今あるのは私だけではなく家族の支えがあったから」と語る伊藤さんの「あきらめない心」そして「周囲への感謝の心」は多くの聴講者に感動と勇気を与えています。
そんな伊藤さんに、インタビューを敢行しました。
特別インタビュー前編では、交通事故から「腕切断」という厳しい決断を迫られたときのこと、奇跡の復活を成し遂げ、日本初・義手の看護師誕生までのエピソードをお届けします。
のびのびと育てられた子ども時代
――まずは、伊藤さんの家庭環境を教えてください。
伊藤 静岡で生まれまして、共働きの両親と、2才上の姉と5才年下の弟の3人兄弟の家庭で育ちました。いつも両親は仕事で忙しく、子ども同士で助け合って日々生活している感じでしたね。ただし、習い事は好きなだけやらせてくれたので、バイオリンや水泳など、いろいろとやりました。思えば、(両親が)あんなに忙しく働いていたのは、私たちの教育費を稼ぐためだったのではないかと思います。
――子どものころはのびのびと育てられたのでしょうか?
伊藤 そうですね。「勉強しろ」と言われたこともありませんでしたし、好きなようにやっていいと言われていました。高校生の時、茶髪で学校に行こうとしても、母は「どうせあんたが学校で怒られるから」と言って、止めることはしませんでした。
「好きなことをしてもいいけど、あんたが最後までちゃんと責任をとるんだよ」と、そう言われて育てられました。
――看護師を目指した理由を教えてください。
伊藤 私の家族や親せきに医療従事者がいなかったので、私たち子どもが病気になったときに「これで病院に行っていいのか、どの科に受診すべきなのか」と慌てふためく母の背中を見ていました。だから、私がいつか看護師になって母の相談相手になってあげたいと思うようになり、中学校の頃に看護学校を受験しようと決めました。
――中学校の頃って自分の進路をしっかりと決めている子の方が少ないと思うのですが…。
伊藤 そうですよね。でも、たった15才で進路を決定していいのかと不安なときもありました。そんな私を見て、あまり育児に参加してなかった父が、ある日「たった15才で進路を決めるなんて、お前はすごいな」と言いました。それに、母からも「看護学校に行ったからと言って、必ず看護師になる必要もないんだし、失敗したらやり直せばいいんじゃない」と後押しされて、看護学校に進むことを決意しました。
――バイクを運転することに関して、ご両親の反対はなかったのでしょうか?
伊藤 父がバイクに乗っていて、それでバイクに興味を持ったのですが、私が18才で「バイクの免許をとりたい」と言ったときには母が初めて大反対をしました。事故で他の人を巻き込む危険性があったので…。それでも、そのときは自分でお金も稼いでいたので、「自分のことは自分で決める」と言わんばかり、母のいうことを無視して、免許を取りに行きました。
――19才ですでに働いていらっしゃったのですか?
伊藤 高校を卒業して准看護師の資格をとっていたので、午前中は病院で働いて、午後から正看護師になるために学校に通っていました。夜も居酒屋やケーキ屋さんでバイトを掛け持ちしたり、病院の夜勤もあったので、家にはほとんどいない毎日でした。お金を稼ぐこともできるし、あちこち自由に行くこともできた。そんな驕りもあったのでしょう。母の言うことに全く耳を貸しませんでした。母はかなり私に対して怒っていましたね。
そんな矢先です。事故に遭ったのは…。
「若気の至り」というにはあまりにも大きすぎる代償
――事故にあったときのことを教えていただけますでしょうか?
伊藤 20才の冬でした。ちょうど、実習の最終日でした。実習では寝る時間もないくらい忙しかったので、帰ったらたくさん寝ようと思っていました。母とは口をきいていなかったのですが、久しぶり気分もよかったので、思いっきり母に「行ってきまーす!」と大きい声で挨拶をしましたが、母はまだ怒っている様子でした。
気にもかけずにバイクをふかして、実習先に向かいました。直線道路で、大きなトラックと接触事故を起こしました。大きなトラックが目の前にきた瞬間に、記憶が飛びました。
――いつ記憶は戻ったのでしょうか?
伊藤 もう一度記憶が戻ったのは、すでにトラックに轢かれて道に横たわっている状態のときでした。バイクは数十メートル先に転がっているし、道も渋滞していたので、とにかくここから離れないといけないと思いました。すぐに体を起こそうとすると、右手がだらりと垂れていた。肩が外れて、粉砕骨折を起こしているだけだと思いました。道の側に座って、携帯を取り出して、母に電話をしました。「なぜ救急車じゃなかった」とよく人に言われるのですが、なぜか母の顔が浮かんだんですよね。母に一刻も早く事故のことを知らせたかった。なのに、うまくしゃべれなかったんですね。しゃべるたびに、口から血が噴き出して、歯もポロポロと落ちてくるんです。顔の片側が粉砕骨折を起こしていることが後からわかりました。母はそれを察して、「とにかく救急車を待ちなさい」と言いました。
どなたかが救急車を呼んでくれていたみたいで、すぐに救急車が到着し、実習へ行くはずだった病院に搬送されました。
――痛みはなかったのでしょうか?
伊藤 痛みはそこまで感じませんでした。とにかく、母に電話して謝ろうとそればかりを考えていました。頭はフルフェイスで守られていたので、普通に意識はありました。救急車の中で、「実習に遅れて先生に怒られるだろうな、明日からリハビリ始まるの?」なんて簡単に考えていました。でも、顔の片方はシールドに叩きつけられて、かなり損傷していたようでした。
救急車に担ぎ込まれた途端、記憶がまた吹っ飛んで、今度は病院に入ったときに目が覚めたのですが、実習先の先生や友達が私の周りを取り囲み、涙を流していました。「私は大丈夫だよ」と声をかけたかったのですが、しゃべれる状態ではありませんでした。
――その後はすぐに緊急手術となったわけですよね?
伊藤 そうです。10数時間に及ぶ手術となりました。私が目覚めたときは、手術が終わったときでした。先生が来て、「明日からあなたが思う以上辛い治療が始まるけど、覚悟ができているか?」と聞かれました。
私はその時からすぐに「腕は何があっても切りたくない」ということは言っていましたし、「そのうち治るだろう」と軽い気持ちでいました。看護師になる夢も諦めていたわけではなかったので、どんな治療にも耐えられると思っていました。だから、先生の問いにも軽い気持ちで「大丈夫です」と答えました。
ところが、翌日からの治療は想像を絶するものでした。トラックのタイヤに腕が巻き込まれていたようで、タイヤの油や砂が腕の肉の間に入り込んでいたようでした。それを除去するため器具を肉の奥まで入れて洗浄するのです。眠らされているわけではなかったので、とにかく暴れて泣き叫ぶほど痛かったです。あまりにも暴れるので看護師さんが私の上に乗って抑え込んでいました。それを蹴散らすほど、尋常ではない痛みでした。
「(治療を)我慢する」と決めたのに、治療開始から2週間目でベットから逃げようとしました。ベットの柵を左手で放り投げて、逃げようと立とうとしたんですが、体力が衰弱して立ち上がることもできませんでした。それでもほふく前進で逃げようとしていたら、看護師さんにつかまって、それからは綱でつながれ、拘束されました。
あまりにも痛かったので、先生に、3週間目から麻酔で眠らせてもらうようにお願いしました。
腕切断を自分で決断するように促した母の強さ
――想像できない痛みですね。
伊藤 そうなんですよ。本当に耐えられない痛みでした。母はそんな私を見て、「だから(事故が起きるかもしれないと)言ったでしょう。自業自得だ」と非難すると思っていました。でも、母はそんなことを言わず、ただ見守るだけでした。
食事の時、リハビリの先生が「左手でこんな風に食べるんだよ」と教えてくれても、うまく使えない怒りで母に箸やごはん、味噌汁を投げつけて当たり散らすこともありました。それでも、母は「もったいないなー」と言いながら、床に落ちたごはんやみそ汁を片付けることもありました。面会時間が終わると、いつも母は「明日も来るからさー。あんた機嫌よくいてよ」なんて声をかけながら帰っていくわけですよ。母に当たることしかできない自分が情けなくて…、思い切って叱ってくれたらいいのに…と、どれだけ思ったことか。
そんな時に母が「もうごはんもうまく食べられないし、痛みで眠れないし、この腕、限界でしょう?」とポツンと言いました。
「お父さんとも話したけど、もう学校にも仕事にもお嫁にも行かなくていいから、腕を切って、家で一緒暮らそう」
それを聞いて、ついに来たかと思いました。自分でもこの腕が治らないことはわかっていたのだと思います。母は、「この腕を切ってくださいと自分の口からお医者さんに伝えなさい。それがあなたの責任だから」と言いました。
私も「はい、わかりました」と言って、先生を呼んでもらいました。決心したのに、それでもすぐに「(腕を)切ってください」とは言えなくて、泣きじゃくりながら1時間かけてやっということができました。その日の翌日に腕を切断する手術が行われました。
――お母様が切断する意思を「自分の口から伝えなさい」といったことはすごいことだと思います。もし医者が促したことで切断していたなら、それはそれでいろんな後悔があったのかもしれませんね。
伊藤 はい、やはり自分で決断して、自分で言うことが重要だったのだと思います。後から聞いたのですが、そのとき感染症も進行していて、一刻も早く(腕を)切断しなければならない状況だったそうです。両親に何度も医者が切断宣告をすると言っていたそうですが、母は「とにかく娘に決断させる」と言って待たせていたそうです。
――自分が決断し、自分の口で意志を伝えたということで、切断した後もそれなりの覚悟はできていたのではないでしょうか?
伊藤 小さい頃から母に「自分のことは自分で責任を持て」と言われ続け、「自分の気持ちで決めて、自分の口で伝えなさい」と育てられたので、お母さん、こんな時にまでそんなことをいうのか、すごいなと思いましたね。それから、母の言うことを聞こうと思いました。
「20年間ありがとね」腕切断の日、母が言った言葉
――切断手術の日はどんな思いだったんでしょうか?
伊藤 手術の30分前に母が私の青白くなった右手を握って、「20年間ありがとうね、お疲れ様、あんたもいいなよ」って言うんです。そんなこと言えるわけないですよね。五体満足に生んでくれた両親の前で「腕を切ってください」と言ってしまうような親不孝者の私ですよ、言えるはずありませんでした。でも、その時に、「人よりも幸せになってやる。両親のために笑った人生を送ってやる」とそう思いました。
――切断してからが大変だったのではないでしょうか?
伊藤 切断すると自分の意思で決めましたか、鏡を見るたびに、顔も半分ぐちゃぐちゃだったので、目を背けたり、何度も鏡を割ったりして、すぐには受け入れられませんでした。入院中は家族以外誰にも会うことなく、退院しても近所の人の目が怖くて、家から一歩も出られませんでした。
――家に閉じこもっていた間、やはり支えになったのはご両親だったのではないでしょうか。
伊藤 そうですね。両親はずっと家にいてもいいと言っていましたが、そのうち両親のためにも早く社会復帰したいという思いが芽生えてきました。両親の笑顔を見たかったんですね。
日本初・片腕の看護師の誕生
――社会復帰をしようと決めてから、最初に何をされましたか?
伊藤 まず、看護師専用の義手を作ってリハビリができる病院を探しました。
――病院探しは大変だったのではないでしょうか?
伊藤 当時片腕の看護師という前例が日本にはありませんでした。それでも、前例がないなら、私が前例になると思って、どこに行ったら「看護師専用の義手」を作ってくれるかいろんな病院に聞きに回りました。義手や義足でトップレベルである兵庫県立リハビリテーション中央病院を紹介され、そちらに転院することになりました。
――リハビリ後、看護学校に復学されたとのことでしたが…。
伊藤 半年近くリハビリをして、日常生活のことは大概できるようになりました。それから、看護学校に復学しましたが、現場ではできないことだらけで、こんなんで看護師になれるのかと不安だらけでした。
――看護業務の中で一番難しかったことは何だったのでしょうか?
伊藤 自分ひとりでなら、点滴に薬剤をつめるとかゆっくりすればできるんですが、隣に医師がいて、それを手渡さないといけない状況では速さと正確さが求められるため、大変苦労しました。
――就職先はどのようにして見つけたのですか?
伊藤 看護学校の先生からは「お前は普通じゃないから、普通に就職先を見つけることは難しい」と言われ続けていました。地元の静岡で就職先を見つけることも考えましたが、私に第2の人生を与えてくれた兵庫県神戸市の病院で働きたいと思うようになりました。
5つの病院を受験しましたが、病院側には「カルテもまともに書けないし、義手をつけての勤務となりますが、第2の人生をスタートさせたこの町の方々に「勤労」という形でお礼をしたいと思っています」としっかりと説明させていただきました。すると、嬉しいことに全ての病院から採用通知をいただきました。
お礼をしたいといいつつ、まぁ、一人前の看護師になるまで、地域の人々に育てていただきました(笑)。
障がいを隠すのではなくさらけ出す
義手でのバイオリンパフォーマンス
「日本初の義手の看護師」として神戸の病院に就職した伊藤真波さんは、行きつけのプールでパラリンピックの代表選手を見て、パラリンピック出場を夢見るようになります。…
伊藤真波 いとうまなみ
元 パラリンピック水泳日本代表
看護師を志していた途上の20歳の時、交通事故で右腕を失う。失意のどん底から、親や家族との関わりにより不安や葛藤を乗りこえ、看護師の道に進む。また、パラリンピック水泳日本代表やバイオリン演奏など、「夢や希望」を常に前向きに実現。現在、育児をしながら講演活動も精力的に行っている。
プランタイトル
あきらめない心
~前向きに生きることで必ず道は開ける~
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