絵本作家の第一人者「いわさきちひろ」。
戦後、日本の絵本に大きな影響を与え、絵本作家の地位向上にも大きく貢献しました。
そんな偉大な絵本作家を祖母に持ち、自らも絵本作家の道を進んだ松本春野さん。
松本さんは、ちひろ美術館に隣接した自宅で、ちひろの世界が身近にある環境で育ちました。気づけば祖母と同じ道を歩いていたそうです。
そんな松本さんにロングインタビューを敢行しました。
前編では、自宅が美術館という特殊な環境で過ごしてきた子ども時代、また松本さんが小さな頃から抱いてきた「いわさきちひろ」のイメージについてお聞きしました。
そこには、世間のイメージとは異なる「ちひろ」像がありました。松本さんの視点からみた絵本作家「ちひろ」の魅力と人生観に迫ります。
自宅の横が美術館。絵本の世界に没頭できた子ども時代
ーー家が美術館ということですが、どのような環境で育ったのでしょうか?
松本 美術館が自宅に隣接していて、閉館後は私たちきょうだいの遊び場となっていました。家族は父と母、2人の姉と私、弟という4人きょうだいでした。
父と母が大学生の頃、祖母のいわさきちひろが亡くなりまして、この美術館を立ち上げたそうです。両親はノウハウも知らないまま、周りの人に支えられながら美術館を大きくしていきました。その間に子どもたちが生まれ、バタバタと子育てしていた、という感じです。家事を担当するお手伝いさんがいて、晩御飯を持ってきてくださる近所の方もいらっしゃいました。
母は専業主婦として家にいることはありませんでしたが、美術館の扉を開けたら両親の働く姿が見える、というような環境で育ちました。
ーー寂しさを感じることはなかったのでしょうか?
松本 寂しさというより、両親の頑張る姿を見て、逆に「すごいな」という敬意を抱いていました。一番上の姉が下の子たちを見てくれて、きょうだいでいつもわいわいがやがやとしていましたし、常に親が近くにいるという安心感もあったので、あまり寂しさを感じたことはありません。短い間でも家族団らんの時には両親とたくさんしゃべっていたので、それで寂しさは埋められていたと思います。
ちひろも、働く母親で、弁護士であり政治家だった祖父よりも稼ぎはあったようですが、祖父が家事や育児を手伝うことはなかったそうです。そんな祖父を見て育った父は、反面教師で、とても家事育児に積極的でしたね。保育園の保護者活動でも中心となって活動をしていたそうです。
当時の美術館は、今ほど大きくなくて、「子どもたちの平和としあわせを」という理念のもとに、それに賛同する地域の方々や文化人がたくさん訪れていました。今思うと、美術館は多くの人が集うサロン的な場所でした。そんな雰囲気が今の自分のアイデンティティを育てたのだと思います。
ーー美術館の発起人には黒柳徹子さんもいらっしゃるそうですね?
松本 はい。黒柳さんは、ちひろの絵が大好きで、自伝小説『窓ぎわのトットちゃん』にもちひろの絵を使用しています。美術館の創設時に呼びかけ人となり、現在は館長を務められていらっしゃいます。私たちきょうだいが子どもの頃、黒柳さんは美術館に足しげく通っていらっしゃって、私たちきょうだいともたくさん遊んでくださいました
国内外さまざまな絵本作家の世界に触れて
ーー小さい頃はどんな絵本を好んで読んでいらっしゃったのでしょうか?
松本 両親が忙しく早期教育どころではなかったので、字を習ったのは小学校に上がってからでした。私が字も読めない園児の頃は、字のない絵本を好んで見ていました。よく読んでいたのは、アメリカの絵本作家マーサ・メイヤーの『かえるくんのほん』シリーズです。絵だけを見て、どこまでも想像力を働かせて、物語を膨らませていました。林明子さんや安野光雅さんの絵にも魅了されていました。
ちひろ美術館には、ちひろの絵だけではなく、欧米、アジア、アフリカなど世界の絵本の原画のコレクションがあり、まだ翻訳前の絵本なども手にする機会もあり、いろんな絵本を眺めていました。
字が読めるようになると、児童書の松谷みよ子さんの『モモちゃんとアカネちゃん』の本のシリーズなどが大好きで、よく読んでいました。主人公に自分を重ねながら、本の世界に没入していました。
ーーそれほど絵本が大好きであれば、大好きな本の絵を真似て描いてみたこともあるのではないでしょうか?
松本 そうですね。ちひろ美術館に海外の作家さんが訪れていたので、その方たちと一緒に絵を描く機会もありました。海外の作家さんたちは、日本の描き方とは違った個性で描きます。小学生時代は、アニメや漫画を描くのが流行っていましたが、ちひろ美術館で世界の作家さんたちの描き方を間近で見て、衝撃を受けて、そちらの方に興味がいきました。
ーー絵の描き方において、一番影響を受けた絵本作家はどなたですか?
松本 やはり、一番身近で生活の中にあった祖母いわさきちひろです。ちひろの描く子どもの絵は、正面を向いているものが多いのですが、どの角度から見ても、必ず目が合うんですよね。美術館の中で遊び回っていると、ふと、絵の中の子どもが語りかけてくるような気がしました。ちひろの絵にはそんな不思議な力がありました。
模写して気づいた、ちひろの強い意志
ーー松本さんにとって、ちひろさんはどんな存在だったのでしょうか?
松本 私が生まれたころはすでに祖母も他界していて、実際に会ったことはありません。ただ、美術館でちひろの世界観にどっぷり浸ることができましたし、父から色々な話を聞いていました。
小さい頃は、ただ単に「絵を描く人」で、とても「みんなから愛されている人」というのは肌で感じていました。どの人もちひろを聖母のようなイメージで語るんですよね。
ただ、私自身も大きくなってちひろと同じ絵描きになり、少し年齢を重ねてくると、ちひろの妹たちがちひろのことを語った「鉄の芯棒を真綿でくるんだ人」という表現がしっくりくるようになりました。
テレビの仕事で、ちひろの絵を模写する機会を多くいただきました。模写するたびに、ちひろがどこに力を入れて描いていたのか、何を伝えたかったのかがわかるようになりました。
ちひろの絵は一見、柔らかく、優しいイメージに見えますが、実は絵を模写するとそうではないことに気づきます。ちひろの描く子どもの顔はとても無表情で、目尻が少し上がっています。人を優しい感じに描こうとすると、一般的には目尻を下げて描きますが、ちひろの描く子どもたちは、決してそうではないんですよね。子どもたちの表情を徹底して抑えて描いていたようです。模写しているとき、少しでも気を抜くと、子どもに表情をつけてしまい、ちひろの絵とは全く違うものになってしまいます。
どうしてそこまでして子どもの表情を消そうとしたのだろうと考えたとき、彼女のたどった人生を思い出しました。
ーーちひろさんの人生とは、どんなものでしょうか?
松本 ちひろは、軍関係の建築技師の父と高等女学校教師の母のもと、岩崎家の長女として1918年に誕生しました。ちひろは、経済的にも不自由のない家庭で、しっかり教育も受け、好きな絵も習わせてもらいながら大切に育てられました。ちひろ自身も幸せな子ども時代だったと語っています。しかし、女学校卒業後、好きだった絵を仕事にすることは許されず、20才の時に親の言いつけで望まぬ結婚をし、中国・大連に渡ります。
物質的には満たされた生活の中でも、どうしても当時の夫を愛することができず、夫婦として心が通うことはなかったようです。そんな日々の末、夫は自死を遂げました。心に大きな傷を抱えたまま、ちひろは一人で日本に帰国します。
そのあと、ちひろは日本の書道の教師として旧・満州に渡りますが、戦況の悪化を察知した軍の知人の計らいで運よく帰国し、残留婦人になることは避けられました。
敗戦後、ちひろは戦禍を生き延びることができた自分とそうでなかった人々へ思いを巡らせながら、戦争中から戦争反対を謳っていたコミュニスト(共産主義者)たちの存在に惹きつけられ、次第に自分もその運動へ関わっていきました。
ちひろの絵は、やわらかい色彩を纏っていても、描かれる子どもの瞳には厳しさが潜んでいます。目尻に緊張感が漂い、口元は凛と引き締まっています。この瞳は、戦禍から逃げ惑う子どもの目だったかもしれません。戦後の街に溢れていたストリートチルドレンの子どもの目だったかもしれません。ちひろが生きてきた中で目撃し、また体験してきた「瞳」だったのではと感じています。
ちひろは、大人が求めるような子どもの表情を、決して描くことはありませんでした。そこには、「戦争の一番の被害者は子どもであり、いつも大人たちの犠牲になるのも子ども。子どもにもちゃんと尊厳があり、大人に媚びるようなことをさせたくない」という、ちひろの強い意志を感じます。また強い瞳を包み込むように、やわらかい幸福な情景ばかりを描きました。
これは私の想像ですが、ちひろは、最初の結婚で夫を傷つけ、特権階級でぬくぬくと生きてきた自分を許せなかった部分があったかもしれません。自分自身が完全無欠ではないからこそ、清く優しい世界を絵の中に描き続けたのではないでしょうか。
ーーちひろさんの色彩はとても柔らかく優しい印象を与えますが、たしかにそれ以上の強いメッセージも感じますね。
松本 前述したように、ちひろはまさに「鉄の芯棒を真綿でくるんだような人」だったと思います。ちひろの中には強い鉄の芯が通っていて、それがなければ、人に左右されて、自分の人生を生きられなかったと思います。
ちひろは、女性の絵描きがまだ一握りだった時代に絵描きとして自立し、好きでもない相手と結婚はしたけれど、自分なりに清算して、また自ら人を愛して、自分で幸せをつかみ取っていきました。ちひろは、自分を曲げることのない強い心根の人だったと思います。
その心根が絵に表れていて、鉄のような強い意志を感じるデッサンの上に、真綿のように軟らかい色彩で包んでいる、そのような描き方をしたのではないかと考えています。
ーーちひろさんが、あえて色彩のタッチを柔らかくしたのはなぜなのでしょうか?
松本 ちひろは戦後、プレカリアート(労働者階級)の芸術運動にも参加しました。苦境の中でも立ち上がり拳を振り上げるような労働者を描くことが讃えられていた中、ちひろは一人、華やかなドレスを身に纏った女性たちを描き、「デモ」というタイトルで発表したりしました。こういった作風は、芸術仲間から大きな批判も浴びました。
しかし、ちひろは、『北風と太陽』のお話のように、人を動かすには温かさが必要であると信じていたのだと思います。共産主義に身を置きましたが、イデオロギーに流されるのではなく、自分なりの信念を持っていて、人から批判されようがその信念を貫き通した。
ちひろは、生前に、「平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」という文章を残しています。そういう信念をしっかり作品に投影し、子どものもつ柔らかな空気感を色彩で表現していたのだと思います。
同じ絵本作家、そして女性として祖母に聞きたいこと
ーー今、目の前にちひろさんがいたとしたら、どんな話をしてみたいですか?
松本 私が考えているちひろ像が当たっているのかどうか、聞いてみたいですね(笑)。
私は、ちひろとは違う、男女平等を目指す時代に生まれて、家庭の中では「女性としてこうならなければならない」という抑圧も感じず、のびのびと育ってきました。両親はいい意味の放任主義で、私がしたいことは自由にやらせてくれました。
だから、私がイメージする子ども像は、自分の実体験に基づいたもので、外で自由に走り回って、コロコロと表情を変える存在。自然な流れで、私の描く子どもたちの姿は、ちひろの描くものとは全く異なるものになっています。
以前、スタジオジブリのお仕事をさせていただいたときに、「私たちは映像の世代である」と言われたことがありました。今の私たちは、子どもたちに豊かな表情や動きをつけて描きます。しかし、ちひろの絵は、静的で表情は抑え気味。それを比較して、現代の絵の描写方法について議論してみたいです。
私もちひろも「子ども好き」という部分は同じなので、この時代なら、ちひろはどんな子どもの絵を描いていたのか、聞きたいですね。
ーーもし、ちひろさんがご存命であれば、きっと、今でも平和に関する活動は行っていたかもしれませんね。
松本 そうですね。ちひろは、頭でっかちではなかったので、きっと若い人たちとうまくつきあいながら、新しい活動をしていったと思います。
ちひろは強い信念を持っていましたが、絵の世界からイデオロギーの押し付けを感じることないので、美術館には、本当にいろいろな世代や考え方の人々たちがやってきます。ちひろは、日々の生活の延長線上にある平和や幸せを願っていました。絵には、そんなちひろの生き方が感じられます。私も、そのような生き方をしていきたいですし、ちひろの考え方もしっかりと受け継いでいきたいですね。
ーー他にちひろさんに聞いてみたいことはありますか?
松本 女性の生き方について、仕事と育児の両立、そして社会の話もしてみたいです。
父曰く、ちひろは1人で家事と育児をこなし、徹夜で仕事することも多かったそうです。
そんなときにも愚痴一つ言わず、泣いた姿を見たこともなかったと言います。
でも、そこは同性として大きな疑問です。普通、文句の1つや2つ出そうじゃないですか。自分なら、一人で全てを抱えるなんて、我慢できません。ちひろと会えたら、ぜひ愚痴を聞き出してみたいですね(笑)。(後編に続く)
ちひろの孫としての役割
そして、絵本作家としての使命
松本さんは、偉大な祖母の孫であるプレッシャーを感じた時代もありましたが、「今は自分なりのスタイルを見つけた」と語ります。
松本春野さんロングインタビューの後編では、絵本作家になった背景や描写へのこだわり、そしてこれまで携わった作品への思いをお聞きしました。…
松本春野 まつもとはるの
絵本作家 イラストレーター
祖母は絵本作家のいわさきちひろ。父はちひろ美術館創設者。多摩美油画卒後『絵本おとうと』(山田洋次監督監修)で絵本作家デビュー。その後、大人向け絵本(NHK『モタさんの“言葉”』絵本化シリーズ他)、多様な社会問題(『ふくしまからきた子』等)、食育など幅広い分野で活躍中。メディア掲載多数。
プランタイトル
「世界中のこどもみんなに 平和と しあわせを」
いわさきちひろが残したものと、わたしが絵本でできること
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