老々介護、介護疲れからの自殺、虐待…。介護には常にネガティブなイメージがつきものですが、そのイメージをポジティブなものに変えようと奮闘している方がいらっしゃいます。
「笑う門にはいい介護の会」代表を務める中村学さんです。
中村さん自身、脳梗塞になった母親の介護経験を持ち、その介護経験を今振り返ると「地獄のような日々」だったと語ります。
中村さんの介護生活が始まったのは、芸人活動をしていた30歳の頃。
中村さんは、いつしか慣れない介護の疲れ、将来の不安から「死ね、ふざけるな」と母親を罵倒するように…。地獄のような八方塞がりの介護生活から、どうやって”笑い”のある生活へと転換していったのか。
中村さんにその一部始終をお聞きしました。

慣れない介護生活に募る焦りと不安

――介護が始まるまでの、中村様とお母さまの関係性を教えてください。

中村 僕は若い頃、吉本興業で芸人としてアルバイトをしながらお笑いの道を目指していました。
男三人兄弟の末っ子ということもあり、母は僕の芸人という夢に対しても、とても寛容的でした。東京で一人暮らししていた時には食べ物を送ってくれたり、いつも「ダメだったらいつでも帰ってきたらいい」と言ってくれたりして、いつも僕を応援してくれていました。母の優しさや思いやり、愛情をすごく感じていました。いつでも帰れる場所があるという安心感があることで、芸人時代も楽しめていました。

▲小さい頃の中村さん(左)とお母さま(右)(画像:中村さん提供)

▲小さい頃の中村さん(左)とお母さま(右)(画像:中村さん提供)

――お母さまの介護をすることとなったきっかけは?

中村 地元を離れて芸人として下積みをしている頃でした。その日もお笑いのステージに立ってアパートに帰ると、留守番電話に「母が脳梗塞で倒れて病院に運ばれた」と兄の焦燥感に駆られた声でメッセージが入っていたんですね。
その後、田舎に戻って母が入院している病院に駆けつけると、お医者さんから「これはもしかすると、退院したとしても誰かのお世話が必要な状態だ」と告げられました。

母はこれまでのように一人で暮らすことは難しいのだろうなと即座に感じました。

僕自身、芸人活動もなかなか芽が出ず、兄弟のなかでも独り身ですぐに動けるのは自分だと思い、自分が母を介護するという決断に至りました。

どうなるかわからない芸人人生に賭けるのか、目の前で困っている母親を助けるのかを考えたとき、ためらうことなく僕は後者を選びました。そして、芸人をキッパリ辞め、母の介護に専念する日々が始まったのです。その頃、僕は30歳、母は65歳でした。

――介護は初めからうまくいきましたか?

中村 いえいえ、本当に大変でした。母は右半身に麻痺が残り、退院当初は歩けず、車椅子の移動もベッドから起き上がるのも手伝いが必要でした。当時は介護保険もなく、介護度はわかりませんが、今思えば要介護3か4のレベルだと思います。

介護が始まるという認識はあったものの、退院したその日の夜に母から「オムツを変えてくれ」と頼まれた時は、頭では分かっていたはずなのに衝撃が大きかったですね。これが、人を介護するということなのかと実感し、覚悟が決まったのを覚えています。

ただ、やっぱり上手くいかない。こっちは仕事をやめて帰ってきて世話をしているのに、母は「ありがとう」という言葉を口にすることなく「これもってこい」「あれしろ」と命令するばかり。母が喜ぶだろうと思って買ってきた母の好物も、「塩辛い」と文句しかいいません。
また、僕は当時仕事をせずに母の介護をしていたため、慣れない介護だけでなく、自身の将来のことや経済的な不安などから、段々と日々のイライラが募っていきました。

――すぐにデイサービスとかは利用されなかったのでしょうか?

中村 母の家はもともと裕福な方で、お嬢様として育てられました。だから、麻痺の残った自分を他の人に見られたくなかったのでしょう。介護生活が始まったころは、外出するのをことごとく嫌がりました。2番目の兄が近くにいたので、ストレスがたまったら兄にぶちまけて、少しばかりは解消されているところもありました。

それでも、僕だけが介護をしていて、それに対して何の報いもないわけで…。介護を始めて半年たったころから、「こんな状態になったのは母親のせいだ」と思うようになり、「死ね」「ふざけるな」と母に対して怒鳴るようになりました。

――その時、お母さまはどんな反応を見せられたのですか?

中村 母も売り言葉に買い言葉ではないですが、「そんなやったら殺せや」と互いに罵り合うようになりました。そんな地獄のような日々が8年も続きましたね。

――8年は長いですね。

中村 そうなんですよ。当時はしょうがないと片付けてしまっていたけれど、今振り返ると、母親は思うように動けないうえ、限られた空間でイライラした僕がいる、とてもしんどかったんじゃないかなと思います。母は認知症ではなかったんですが、精神的にはかなり追い込まれた状態だったと思います。

 “地獄の介護”から”笑顔の介護”に変わった瞬間

▲介護について講演する中村さん(画像:中村さん提供)

――出口がないところをぐるぐる回るような介護生活だったと思いますが、これじゃいかんと思った転機は何かあったのでしょうか?

中村 介護のストレスが溜まって家の中の空気がずっと悪い時期に、きっかけとなった出来事が同時期に2つありました。

ひとつ目は、キッパリとやめた芸人人生でしたが、久しぶりに当時の仲間から連絡があったことです。

介護初めて5年くらい経ったときに、母親がデイサービスに行けるようになり、介護の世界に興味を持ち始めるようになりました。
それで、介護士として働き始めるようになり、電話をくれた仲間に、「介護の世界がとにかく楽しくて仕方ない。芸人としては笑わせることはできなくなったけれど、介護士として、通所する方々を笑顔にさせることができて、とても充実している」と話しました。その一方で、「自分の母親には不満が募り当たってしまう」と、不安な心情を吐露しました。

すると、友人から「お前がやっていることは薄い!」と言われてしまいました。
介護で人を笑顔にしたいと言いながら、いちばん身近な母親を笑顔にできないなんて、順番が逆だろと言われました。この意見に、ハッとさせられました。

もうひとつは、介護の仕事をするなかで、元芸人ということもあって、近所の人から介護の経験を面白おかしく話してくれないかという打診がありました。
そこで、僕は、近所の人たちに向けて、「暴言吐いちゃうんですよ」「イライラしちゃうんですよ」と自分の介護のストレスフルな状態を包み隠さず赤裸々に語りました。
すると、その内容に共感したという感想をたくさんいただいたんです。

例えば、「私も介護でイライラしていたことがあるからとても共感できる内容だった」とか、「嫁ぎ先の義理の母の介護をしているけれども憎くてしょうがない、だけど中村さんの話を聞いて、腹が立つのは当たり前なんだということが分かり、力をもらえました!」といった感じです。

そんなことから介護で悩んでいる人は自分だけではなく他にもたくさんいること、自分の話で人に何かしらの勇気や力を分けられていることが分かりました。

――この2つの出来事が、中村さんに気づきをもたらしたんですね。

中村 そうです。僕が介護の話をすることで、ストレスだらけの人を少しでも元気にできたらいいなと思うようになり、そのために、母親に対して笑顔でいられるようにしないといけないと考えを改め、母の介護に向き合うようになりました。

まずは、母を笑顔にすることから始めました。おでこをくっつけて笑わせたり、ハグしたりと、とにかく母に笑顔でいてもらえるような雰囲気を作ったことで、母との関係性は介護前のように戻り、上手くいくようになりました。

(母に)「産んでくれて本当にありがとう」と心の底から言えるようになったのもこのきっかけがあったからです。

▲介護生活後半にはお母さまの笑顔も見られるように(画像:中村さん提供)

――中村さんが変わったことで、お母さまにも変化はありましたか?

中村 母はよく笑うようになり、日常会話も増えました。家の雰囲気もだいぶんと良くなりました。
「笑顔の介護」という講演で話しているテーマも、このことがきっかけで生まれました。
それまでは母親の一挙手一投足に怒りがこみあげていましたが、気持ちの持ち方、感じ方が変わったら、いきなり怒るのではなく、一旦受け止めて、冷静に対応できるようになっていったのです。
そして、こうしたイライラした経験と、それを乗り越えた経験を人に話すことで、悩んでいる方のエネルギーになるという感覚で講演活動にもより一層力が入るようになりました。

――講演活動が自分を俯瞰して見られるきっかけになったのかもしれませんね。

中村 その通りです。笑顔を意識した介護をするようになり、母親の表情は非常に穏やかなものに変わりました。また、日々の生活の質、家の空気なども改善され、わざと大きなため息もつかなくなりましたし、お互いに落ち着いて過ごせるようになりました。

日々の小さな幸せがベースとなり、日常の会話がある穏やかな生活へとシフトチェンジできました。

介護とは「親が命がけでする最後の子育て」

――在宅介護を経て、お母さまが亡くなられるまで、そして亡くなってから気持ちの変化などはありましたか?

中村 初めは在宅介護から始まり、亡くなる前は病院で過ごす時間が多くなった母の介護でしたが、最後の4カ月間は振り返るといろんなことを勉強させられた気がしています。

看取り期に入り、母は全く話すことはできませんでしたが、お医者様との会話のやり取り、隣の部屋にいる人の思いやり、母が衰えていく悲しみやもどかしさなど、いろんなことを教えてくれたり感じ取ったりしました。
亡くなっていくであろう命と向き合う感覚というものを、無言の母親は僕に浴びせて成長させてくれたんじゃないかと思っています。

そう考えると、ずっと介護をしてきてお世話をしているつもりだったけれど、こうした経験をして、人間としての幅を広げてくれた、亡くなる直前にまた一歩、母に育ててもらったんだなと感じました。

この経験が、介護士として、誰かにアドバイスをするときに親身になって伝えられるのではないかと、後で感じることができました。

――実際に看取られる際はどのようなことに気をつけられましたか?

中村 母が亡くなる前、僕はデイサービスの仕事を続けながら、介護の仕事が大好きになり、介護をもっと追求したいという気持ちが大きくなっていた時期でした。

いよいよ母の看取りというステージになった時、僕のなかでは25年続いた介護の総決算、この看取りに対して自分の全てを捧げるという覚悟で臨みました。

振り返ると、介護の仕事をするきっかけとなったのも母親、笑顔で介護ができるように変われたきっかけも母親。僕の人生にとって大切なことは母親の介護がきっかけでした。

最後の介護のテーマとして「僕が息子でよかったなといかに思わせるかの挑戦」とし、身につけた知識や経験を全部この看取りで出し切り、母にとって最高の時間を過ごしてもらいたいと計画しました。


▲お母さまの看取りでは、子どもたちと一緒に行き話しかけるようにしていた

――具体的にはどのようなことをされたのでしょうか?

中村 亡くなる4カ月前に大きな脳梗塞が見つかり、母も反応がなかったのですが、できるだけ子どもたちや妻と母のもとに行って、母の耳元で昔のことや今日あったことなどを話すようにしたり、たくさんスキンシップをとるようにしました。
穏やかな時間を過ごしながら、僕らしく「楽しいな」という空気にしようということでした。子どもたちも含めて、楽しく朗らかな空間を提供することに時間と労力を割いていました。

▲反応がなくても、おばあちゃんを笑わせようとする子ども達(画像:中村さん提供)

――お母さまの最期はどのようなものだったのでしょうか?

中村 僕たちが病院から帰った後、翌日の未明に母は息を引き取りました。
最後の瞬間には立ち会えなかったのですが、冷たくなった母の体を抱いて、家族で大泣きをしました。いっぱい泣いた後は、すっきりとした気持ちで、みんなで思い出話をして笑顔で過ごしました。母親の最後は本当に穏やかなものだったと思います。

▲「最期は笑顔で母を見送りました」と中村さん(画像:中村さん提供)

「笑顔の介護」とは「日常の幸せを感じる心」を追求すること

――中村様のおっしゃる「笑顔を追求する介護」とはどのようなものでしょうか?

中村 介護をしていて、場面場面の笑顔はあると思いますが、反応がなくなってしまう状態だと、ついつい、言っても仕方ないか、声をかけても伝わらないかと思いがちです。
ですが、そのような時期になっても日常の声かけや会話を続けてほしいと思います。

なぜなら、介護される方の表情には出ないかもしれませんが、安心感を与えるからです。
介護する方が笑顔だと、介護される方も安心できます。

笑顔には無数の種類がありますが、幸せを感じる心=笑顔だと思っています。
楽しくて笑うことだけではなく、安らぎを感じるときのふわーっとした笑顔もあるでしょう。心の安心、家族とのつながりがあることで、そうした笑顔は生まれます。

ぜひ、笑顔を意識した介護を目指していただきたいと思っています。

――介護で今も辛いという方に向けて、まず、自分自身が笑顔になるためにはどのような切り替えをするといいでしょうか?

中村 介護のストレスをどうにかしようとするのは、一人ではなかなか難しいことです。
でも、介護ストレスといかに向き合えるかで、変わってくると思っています。
よく介護ストレスを減らさないといけないと考えていても、実際には遠慮がちになって思い切ってストレス発散できない環境だったりします。
しかし、笑顔になって相手に向き合うためには、介護する人は、介護する時間と同じくらいの自由な時間が必要だと思っています。

何にも縛られない時間を作ることで、うまく切り替えができるようになるのではないかと思っています。極端な話、罪悪感を感じるくらい外で楽しんでもいいと思うんです。介護を忘れるくらい、その時間だけに集中して楽しむことで、介護のイライラも吹き飛びます。

介護ストレスで辛く相手に当たっていた方のほとんどが、いざ、親が亡くなった時には「もっと優しくしておけばよかった」などの後悔があると聞きます。

介護でこれまでの親子関係がギクシャクしてしまったのなら、まずは自分が外でしっかりと楽しんでストレスをリセットすることが大切です。介護する側のイライラがリセットされると、ギスギスした雰囲気も穏やかなものになります。

まずは介護する側が笑顔になってから、介護する側を笑顔にする。
結果的に、これが僕の伝えている「笑顔を追求する介護」にもつながります。

「笑う門にはいい介護」をもっと広めていくために

――中村様の介護に対する想い、希望を教えてください。

中村 僕は、在宅介護期間を含めて25年もの間、自分の母の介護をしてきました。
また、自身が介護の仕事でさまざまなご家族と関わってきました。

介護には、虐待や老々介護、8050問題など、さまざまな問題をなくしていきたいと思い講演活動をしています。

「笑う門にはいい介護」を合言葉に、ネガティブなイメージの介護を少しでも前向きに捉えてみようと感じていただきたいと思い取り組んでいます。

また、僕自身デイサービスの施設長の経験もありますが、介護の現場で働く方々にとっても、大変きつい現場だと思います。それでも「本当は介護っておもしろいんだよ」ということを伝えながら、虐待など不適切なケアをなくしていければと考えています。

今、介護で行き詰まっている気がするという方、誰にも介護のことを話せないという方、これからの介護に自信がないという方に向けて、明るい未来を描くための力になれればと思っています。

――今回のインタビューをさせていただき、やはり介護は綺麗ごとだけでは済まされないなかでいかに、前向きに向き合えることが大切なのかをご自身の経験を通して非常に分かりやすく教えていただきました。
そして、人を笑顔にさせることが好きだという中村様の本当に優しく、明るいお人柄、ご自身で乗り越えられた力強さを感じられました。

講演では今、介護で悩んでいる方、これから介護が待っているという方にとっても、きっと希望や勇気が湧く時間となると思います。
本日は、ありがとうございました。

中村 学 なかむらまなぶ

笑う門にはいい介護の会 代表 介護人材育成コンサルタント 介護現場モチベーションアッパー

作家コンサルタント医療・福祉関係者

元介護の虐待息子。30歳の時芸人を辞め母の介護をするも虐待に走り介護地獄へ転落。心機一転、介護業界転身。施設長を勤めたデイサービスは「日本一笑いのデイ」と取材殺到。著書『笑う門にはいい介護』は宮根誠司の推薦本。高齢者虐待防止、介護組織改善、認知症、介護予防等の講演が好評。

プランタイトル

笑う門にはいい介護
~虐待が抱擁に変わる時~

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