バリアフリーダンスユニット『Little Love(リトルラブ)』のリーダー 奈佐 誠司(なさ せいじ)さんは、18歳という若さで交通事故に遭い、車いす生活になりました。二度も自殺を図るほどの絶望の中で車いすダンスと出会い、人生が変わったという奈佐さん。車いすダンスアジアチャンピオンにまでなり、プロ引退後もダンスに情熱を燃やし続ける奈佐さんに、夢を諦めないことの大切さについてお話いただきました。
夢を追っていた最中の交通事故。体の自由を失って味わった絶望感
――奈佐さんは18歳の時に事故に遭われて車いすになられたんですよね?
奈佐 オートバイの練習中の事故でした。16歳からオートバイレーサーを目指していたため普段はレース場を走ることが多かったのですが、その日はレース用のバイクを持ち出して公道を走っていたんです。その際に停車中の車にぶつかって背骨を骨折し、歩けなくなりました。
――とても大きな事故だったんですね。
奈佐 両肺が潰れて息ができない状況でしたし、神経もちぎれたため現在も左手の握力はありません。
――18歳という若さで、しかも夢に向かって努力している中でのその状況は相当辛いですよね。
奈佐 16歳までは何をやっても1番になれるものがなく、自分に自信がないまま過ごしていました。その中でバイクに出会い、鈴鹿サーキットでも良い成績を残すことができ、プロを目指して努力していた中での事故でしたから…。絶望的でしたね。言葉には表せられないくらいの衝撃でした。事故直後は死ぬことしか考えられなかったです。どうやったら死ねるかをずっと考えるしかなかった。
――そんな状況からどのように立ち直ったのでしょうか?
奈佐 もちろんすぐには立ち直れなかったです。でも、隣のベッドに入院されていた方の影響がすごく大きかったです。その方は首を骨折したため、首から下が動かせない状態でした。
それなのに、毎日明るく「おはよう!今日も1日頑張ろう!」と笑顔で僕に接してくれたんです。
「そんな状態で嫌じゃないの?」と聞いたら「俺、ペンを咥えて絵を描けるようになったんだ。努力すればきっと旅行にも行けるし結婚もできる。そういう人を俺は知っている。俺はそうなれるよう頑張ろうと思っているから、お前も一緒に頑張ってみないか?」と言われたんです。涙が出ました。
そこからですね、少しずつ前を向けるようになったのは。それでも「やっぱり死のう」と何度も考え、そんな繰り返しの中で1年かけて退院しました。あの言葉は本当に忘れられません。
二度目の絶望の中で出会った車いすダンスという新たな夢
――奈佐さんは会社経営もされていらっしゃったんですよね?
奈佐 「何もできない自分で一生を過ごすのか、それとも健常者と同じように社会で生きていけるのか」と考え、自分を試したくなってチャレンジしました。
姉の応援に後押しされたのもありますが、健常者と同じように見られたいという思いが大きかったですね。「車いすに乗っているかわいそうな人」とか「何もできない人」と見られるのが嫌で、人一倍頑張ってみようと思いました。
――そこからどのように車いすダンスと出会ったんですか?
奈佐 起業から8年後の27歳の時に自己破産したことが最初のきっかけです。その時に2回目の自殺も考えました。
――18歳で車いす生活になり、19歳で起業して、27歳で自己破産…。お若いうちに目まぐるしく状況が変わっていますね。
奈佐 早い時期にいろいろなことを学べたと思っています。自己破産したことで、自分に足りなかったのは優しさや思いやりだったんじゃないかと気づきました。経営者だった頃は、“お金さえあれば生きていける”なんて勘違いをしていたんです。自分が辛かった時にお金儲けに人生を捧げてしまったことを恥ずかしく感じて、経営者時代の経験を活かし、ペットを助けるボランティア活動を始めました。
その活動で出会った方とスポーツの話題になり「昔はダンスが好きだったけど、車いすでダンスはできないでしょう」と言ったら、「車いすダンスを教えられる先生を知っているから紹介するよ」と言ってくれたんです。翌日には東京にいるその先生の元に向かい、ダンスを教えてくださいとお願いしました。
――行動が早いですね!
奈佐 自分がしたかったことがそこにあると思ったら、すぐ行動せずにはいられませんでした。教えていただけるようお願いしたところ、「次の練習からもう1台車いすを持ってこい。一緒に乗って、お前の目線で振りを考えるから」と言っていただいて。涙が出そうになるほど嬉しくて、「この人なら信じられる」と思いました。
――素敵なお話ですね!そこから日本チャンピオン・アジアチャンピオン(※)にまでなられたわけですが、それほどの努力を続けられた原動力は何だったのでしょうか?
奈佐 ダンスが好きだという気持ちだけですね。優勝を目指して努力していたわけではなく、ただただダンスが好きで、うまく踊るために努力をしてきただけです。プロは引退しましたが、現在も車いすダンサーとして良いパフォーマンスをお見せできるよう努力を続けています。
一歩でも夢に近づこうとする過程が重要。心のバリアフリーがある社会を目指して
――ダンスをする上で意識していることはありますか?
奈佐 僕自身はステップが踏めないため振り付けはできませんが、立って踊るメンバーと僕が共にカッコよく見えつつも、あたたかさを感じられることを意識して振り付けを相談しています。僕はできる動きも限られているため「無理をしてでも立って踊る姿に近づけるよう頑張ろう」と、常に上を向いて練習しています。
――車いすということが気にならないような動きを心がけていらっしゃるんですね。
奈佐 それが講演のテーマでもある“心のバリアフリー”です。健常者の方と車いすの僕が踊っている意味を振り付けで伝えていきたいと思っているので、よく相談して、メンバー同士が思いやって振り付けを作ることを大切にしています。
――心のバリアフリーの実現のためにされていることはありますか?
奈佐 講演会以外の場では、心のバリアフリーについてお話ししないようにしています。障がい者に対しても自然体で無理なく接してもらえたらそれでいいと思っているからです。障がいがあるから優しくしてほしいとか気を遣ってほしいという雰囲気を醸し出してしまったら、相手との間に壁が生まれてしまうと思います。だから僕は障がいを気にせず接してもらえるような雰囲気を出すようにしていますね。
――奈佐さんは講演で夢についてもお話されていらっしゃいますが、夢を見つけ、諦めないコツはありますか?
奈佐 夢や目標は人生の中で自然に出てくるものであり、それをやるかやらないかで違いが出るのだと思っています。「ああなりたいけど努力するのはしんどいな」なんて思ったらそれで夢は終わってしまいます。
努力しても叶わない夢もあるとは思いますが、夢に近づくために努力する過程こそが重要だと僕は思っています。子どもたちには講演会で、「ぶつかってもそこで止まらないようにしよう! 1年後でも2年後でもいい!また自分の力で一歩進む力をつけよう!!」と伝えています。
――努力を続けて成長することが大切なんですね。講演では奈佐さんのダンスも見られるんですよね?
奈佐 やっぱり一番はダンスを見てもらいたいので、講演ではお話を聞く時間とダンスを見る時間、ダンスを体験する時間を設けています。話を聞くだけではなく僕のダンスを見て感じること、車いすの世界を体験して感じることをテーマにして講演を行っています。
――奈佐さんの現在の夢をお聞かせください。
奈佐 僕の夢は、講演とダンスによって2つのことを伝えていくことです。1つ目は「夢を諦めないこと」。絶望的になったり夢を失ったりすることは誰もが経験し得ることです。僕自身、事故により夢を失い、絶望を味わいましたが、多くの人の支えとダンスとの出会いにより、夢を持つことの大切さを改めて教わりました。僕の講演とダンスで、夢を諦めないことの大切さを伝えていきたいと思っています。
2つ目は「心のバリアフリー」です。車いすである僕が健常者のダンサー2名と一緒に踊ることで心のバリアフリーを表現したいと思い、講演ではいつもダンスを披露しています。街で障がいのある人が困っていたら当たり前のように手を差し伸べる。そういった優しさを幼い頃から身につけてほしい。そんな心のバリアフリーをダンスによって伝えていきたいと思っています。
社会にはまだまだ差別や偏見がたくさんありますが、1人でも多くの方に心のバリアフリーについて理解してもらい、心のバリアフリーな社会ができるよう願っています。そんな社会になるよう、僕の想いや経験をダンスを通じて伝えていきたいと思います。
――本日は素敵なお話をありがとうございました!
※奈佐さんは第一回全日本車いすダンススポーツ選手権ラテン部門や第一回アジア車いすダンススポーツ選手権ラテンクラスなど数々の大会で優勝している。
奈佐誠司 なさせいじ
車いすダンサー
オートバイの事故で下半身麻痺となり、左手の握力も無くなる。バリアフリーダンスユニット「リトルラブ」のリーダーを務め、車いすダンサーとして活躍。持ち前の明るさと行動力で様々なイベントに参加し、「ダンスで心のバリアフリーを!」と題したエネルギッシュなダンスと心に響く講演が人気。
プランタイトル
ダンスで心のバリアフリーを!
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