2003年に離婚し、シングルマザーとなって娘の百々果さんを育ててきた梅宮アンナさん。SNSにも度々百々果さんの様子が投稿されるなど、非常に仲の良い親子として知られています。しかし、2度の不登校やニート期間、育児放棄バッシング、父・梅宮辰夫さんの介護などもあり、その子育ては順風満帆というわけではなかったそうです。母となって21年。50歳を迎えた梅宮アンナさんが、七転八倒の子育てを振り返ります。
産んだ瞬間「別れなきゃ」と思った。健全な環境で育てるため離婚を決意
――アンナさんは百々果さんを出産後1年ほどでシングルマザーになられていますね。どのような状況で離婚を決意されたのですか?
アンナ 元夫とは非常にケンカが多かったので、ケンカしている姿を見せたり、寒々しい夫婦関係だったりする環境に娘を置きたくなかったのが、シングルマザーの道を選んだ一番の理由です。お腹がどんどん大きくなっていってもケンカが絶えず、「この状況は子どもにとって良くないんじゃないか」という思いを妊娠中から抱いていました。そんな状況での出産だったので、産んだ瞬間に「あ、もう私、別れなきゃ」と思ったんです。「夫と一緒に子育てを頑張るのではなく、私が頑張って育てていくんだ」と。そこから1年間の協議の末に離婚しました。
――百々果さんの養育環境を考えての離婚だったんですね。一人で育てていくことに不安はありませんでしたか?
アンナ 不安はありませんでした。その後も仕事をしていく環境を考えたら離婚は早いほうがいいと思ったので、決断は早かったですね。両親をはじめ、いざというときには周りに頼ることもできる状況でしたし、無理に夫婦関係を維持する努力よりも、父親がいなくても娘に寂しい思いをさせない努力をした方が子どものためになると思ったんです。
自立した人間に育てたい。お受験をやめ、インターへ転園
――アンナさんの強さと百々果さんへの愛情を感じますね。百々果さんをどのようなお子さんに育てたいと思っていらっしゃいましたか?
アンナ 一番重視したのは精神的な自立です。一人で生きていけるように育てるということですね。父は「可愛い子には旅をさせてはいけない」という考え方の人だったので、私は世の中の怖さを知らないまま育ったんです。そんな温室育ちだったので、芸能界に入った当初は純粋に何でも話してしまい、人と会うたびに傷ついていました。そんな経験から父の教育には唯一、厳しさが足りなかったと感じていたので、娘には世間の厳しさも教えたかったんです。特に娘は父親がいませんから、「私はパパがいなくても大丈夫」と思えるように(父親の分も)カバーもしなければいけないと思っていました。
――育児する上で特に気をつけていたことはありますか?
アンナ 細かいことはいろいろありますが、学校選びは特にこだわりました。子どもが学校にいる時間は非常に長いですし、私自身がハーフであることからいじめられたり、父親が有名人だからと色眼鏡で見られたりしたので、学校選びはすごく重要だと考えていました。いろいろと考えた結果選んだのが、インターナショナルスクール(以下「インター」)です。
インターに通う前には名門と呼ばれる私立幼稚園に入園し、週6で塾に通うハードなお受験対策をしていました。でも娘は嫌がるし、1万円札が千円札かのようにお金がどんどん飛んでいくんですよ。「両親が揃っていないと合格できない」とも言われていて、お受験対策をしながらも納得がいっていませんでした。「英語を話せたら世界中で生きていけるから、人生の選択肢が増える」という思いもあり、幼稚園後半からはインターの付属幼稚園に通わせました。
まず親を評価する学校が多い中で、娘自身をきちんと見てくれたことが、そのインターを選んだ決め手でした。インターでは勉強だけでなくスポーツも同じくらい評価されます。成績が落ちると部活を辞めなければならないので、娘も必死に勉強を頑張っていました。勉強もスポーツも自主的に頑張らなければいけない環境だから、忍耐力がついて精神が強くなるんです。そのおかげもあって、私があれこれと手をかけなくても自分でいろいろとできる子に育ってくれました。
――願っていたとおり、精神的に自立した女性に成長されたんですね。
アンナ 不登校の時期もあったりと、必ずしも順風満帆ではなかったですけどね。私からあれこれ言っても本人が嫌々やっていたら伸びないですし、本人がやりたいことを明確にしてあげることが私の務めだと思っていました。私は全然スーパーお母さんでもないし、「旦那さんがいたら楽だったかも」と思う時もありました。でも、パパがいないからこそ、百々果と私だけのオリジナルの関係性ができあがったように思います。
2度の不登校とニート期間。道は1つじゃないから娘の意思を尊重した
――「不登校」というお話がでましたが、百々果さんは小学校と高校で2度の不登校を経験されたそうですね。
アンナ 「ちょっと今日学校行きたくない」と言って休むようになり、しばらくは一日おきくらいで登校できていたんですが、ある日登校途中に倒れてしまって。病院で精密検査をしてもどこも悪くないんです。でも本人は学校に行きたくないと言うし、理由も言わない…。結局、それを機に半年くらい不登校になりました。
でも、「学校に行きなよ」とは1回も言いませんでした。私自身が「どうやったら学校に行かずにすむだろう」なんてことばかり考えていた中学時代を過ごしていたので、行きたくない気持ちがすごく分かったんです。私は親に無理やり学校に行かせられてすごく辛い思いをしましたし、学校に行けない苦しみはきっと本人にしか分からないものだと思ったので、自分で「行きたい」と言うまでは行かせるのをやめようと思いました。そのうち学校から「このままだと1学年下で通ってもらわなければならなくなります」と連絡が来たことで娘が登校を決意し、また通えるようになりました。
――不登校の理由も分からないままでしたし、不安になりませんでしたか?
アンナ 全然ならなかったですね。私自身、不登校が原因で1年遅れて高校に入学しましたから、1、2年くらい学校に行かなくてもいいし、転校してもいいと思っていました。娘はニートだった期間もありますが、しばらくアルバイトをしながらでも自分に合う仕事を見つけられればいいと思っています。何かにつまづいたとしても、解決方法は1個じゃないんです。芸能界という特殊な世界で30年生きてきて、「きっと今歩いているこの道は間違っているんだろうな」といつも思っています。でも、間違っていたほうが学べることがいっぱいあるんですよ。色々な経験をした方が心が折れないし、心が折れたとしても立ち直る方法を私はいくつも見つけてきたので、娘にも色々な道があることを話しています。
子どもは子どもなりに葛藤していますし、親に全て話せるわけではないと思います。だから、私が子どもを追い込むようなことはやめようと思っていました。結局人生は自分で切り開いていくしかないので、親がしてあげられることって、あるようで実はそんなにないと思うんです。私が何でも用意してあげると、自分で考えられなくなっちゃうじゃないですか。だから娘には、自分の頭で考えて、答えを出して、行動する癖をつけるように教えていました。
育児放棄報道に介護…。辛い日々を支えてくれたのは娘だった
――子育てに対し、ご両親からのサポートはありましたか?
アンナ 父は百々果と過ごすのが大好きだったので、幼稚園のお迎えなんかはいつも行きたがりましたね。お迎えに行ったら、もうそのままデートです。一緒にスーパーに寄って食材を買っていくのが父の生きがいみたいになっていたので、よくお任せしていました。私も助かりましたし、Win-Winだったんです。
私の理想はサザエさん一家だったんです。だから離婚して2人だけで核家族として暮らしていくのではなく、みんなで協力しながらワイワイ子育てしてきました。「1人で頑張っていたら絶対どこかでパンクしちゃう」と思ったので、頼ってもいいんじゃないかと思ったんです。「できないものはできない」と頑張りすぎず、娘のためにも自分が病まないようにしていました。
――「育児放棄」と報道されたこともありましたが、ご家族みんなで大切に育ててきたにも関わらずそう言われてしまうのはとても辛いですよね。
アンナ 「育児放棄」と言われた発端は、私が両親に娘を預けていることだったんですが、私たちからするとむしろ娘を放っておいたことは一度もないんです。私が仕事に行く間娘を1人にするよりも、祖父母やお友達とワイワイ楽しく過ごしている方が娘にとって良いと思ってしていたことが、全く真逆に取られてしまって…。「娘が理解してくれていればいい」と思いつつも、私自身は時にメソメソ泣いてしまうこともありましたね。
そんな時に支えてくれたのは百々果でした。私が批判を受けていることに対し「気にしなくていい」と言い、百々果自身も気にしないスタンスでいつもいてくれました。母親になって21年。世の中の人には理解してもらえないこともたくさんありましたが、諦めずに、自分の信念を忘れずにやってきて良かったと思います。
――お父様の梅宮辰夫さんが体調を崩された2018年頃からはご両親の介護が始まり、”みんなで子育て”という状況が一変したと思います。その時期は百々果さんもまだ高校生でしたし、大変だったのではないですか?
アンナ 両親は2019年に長く住んだ渋谷の家を売却して神奈川県の真鶴というところに引っ越したので、毎週金曜に娘と一緒に真鶴まで通う日々でした。介護と言っても両親は寝たきりではなかったので、父を長年サポートしてくださっていた方と一緒に、透析の送迎などを分担してやっていました。
一番つらかったのは「心の介護」ですね。病気のつらさから心を病んでしまったのか、私のことを大好きだったはずの父が別人のように、傷つく言葉を浴びせてくるようになってしまいました。常に父と一緒にいる母も参ってしまい、「帰らないで」と脚にしがみつかれたこともあります。そんな状況に私もどんどん弱っていきましたが、百々果が悩みを聞いてくれたことで支えられていました。
娘は一緒にいて一番うまくいく相手。母になって21年が過ぎ、願うこと
――百々果さんとの親子関係は、一言でいうとどのような関係ですか?
アンナ 私たちは独自の関係を築き上げてきたので、ちょっと不思議な関係かもしれないですね。娘は一緒にいて一番うまくいく相手なんです。私は1人でいるのが好きなタイプですし、親を煙たがる子どもも多いと思いますが、百々果とはお互い長時間一緒にいても苦にならないですね。その理由は、嫌いなものが似ているからかもしれません。私たちはよくニュースやSNSで話題の話をして価値観のすり合わせをするんですが、考え方が大概そっくりなんです。娘に対して「え?あなた本当に21歳?55歳くらいな感じなんだけど」って思う時もあります(笑)。
――21歳になった百々果さんに対し、母として願うことは何ですか?
アンナ きちんとお金を得て、自分で自分の面倒を見られるような人になってほしいと思います。結婚もいいですけど、今は結婚だけが幸せな時代でもないですから、やっぱり自分の力で生きていく力を養っていってほしいですね。百々果は今、美容の道にチャレンジするためアメリカで頑張っています。インターでネイティブ並になった英語力も活かして頑張ってもらえたらと思っています。
――講演会ではどのようなお話をしていただけますか?
アンナ 基本は私の経験談ですね。子育てや介護、相続など、人生で起こり得る問題について、経験者の目線で分かりやすくお話したいと思っています。私も介護をした時は周りに経験者がいなくて悩みましたし、SNSをやっていても悩んでいる方がすごく多いと感じます。人生で起こる問題に対し興味を持っている方や、今まさに悩んでいる方に向けて、壁にぶつかった時にどのような意識で進んでいけばいいのかといったマインドのお話などをしていきたいです。また、ファッションモデルとしてこれまで培ってきた美容やファッションに関する知識もお話しさせていただきます。
――最後に、アンナさんの夢をお聞かせください。
アンナ 人間はいくつになってもチャレンジできると私は思っています。今私は50歳ですが、気持ち的には20歳と変わらないです。最初からできないと諦めるのではなく、結果がどうであれチャレンジすることが大切だと思っています。私も毎日色々なことにチャレンジしながら生きていきますので、ぜひみなさんもチャレンジ精神を忘れずに、向上心を持って生きていきましょう。
――貴重なお話をありがとうございました。
梅宮アンナ うめみやあんな
モデル タレント
父はカリスマ的俳優の梅宮辰夫氏。20歳でモデルデビュー。CM・TV出演も多く時代を象徴する人気モデルとして一躍その名が知られる。28歳で結婚、29歳で長女を出産、シングルマザーとして仕事と子育てを両立。50代に入り、看取り・相続、娘の不登校、自身のいじめや更年期体験の他、今後の抱負を語る。
プランタイトル
応相談
あわせて読みたい
徳島県名西郡神山町の小さな町に2023年4月、起業家精神を学べ…
2020年~2022年のわずか2年で約10万人も増加するなど※…
岸田政権の支持率が20%(2024年9月現在)となるなど政治へ…
他の記事をみる
業務外の講師への取次は対応しておりません。