今や17人に1人の割合で存在すると言われ、社会問題となっている“ヤングケアラー”。本来大人が担うべき家事や介護を子どもが担うことで学力や人間関係など様々な影響が懸念されている問題ですが、この問題の恐ろしさの1つに「当人が無自覚であることが多い」という背景があります。

お笑いコンビ 平成ノブシコブシの徳井健太(とくい けんた)さんも、無自覚なヤングケアラーであった1人です。単身赴任で不在の父と、精神疾患で引きこもってしまった母に幼い妹。徳井さんはそんな環境の中で、小学6年生から18歳まで家族を支えてきました。

当時を淡々と、客観的に振り返る徳井さん。しかしそのお話からは、ヤングケアラー問題の恐ろしさと難しさが見えてきます。徳井さんが経験したヤングケアラーの生活と、今ヤングケアラーとなっている子どもたちに必要な支援について前後編にわたって語っていただきました。

突然母が引きこもりに。愛なきヤングケアラー生活で失った感情

▲イメージ画像

――徳井さんは小学6年生からヤングケアラーになられたそうですが、そのはじまりはどのようなものでしたか?

徳井 はじまりは父親の単身赴任でした。当時は千葉の団地に住んでいたんですけど、父親が転勤した数日後に母親が「団地の向かいから誰かが見てる」って言い出したんです。冗談を言っているんだと思って「本当だ、見てる」って返したら、その瞬間から母親が部屋に引きこもって一歩も出てこなくなりました。

――お母様が出てこないことに悩んだり、家事をやることに戸惑ったりしませんでしたか?

徳井 それはあまり思わなかったですね。母親が出てこないなら僕がしなきゃいけない。だからしていたという感じです。もともと小学校低学年頃から家事は結構していたんですよ。母親が掃除以外のことをあまりできない人だったので。母親が作る朝ごはんは、温かいご飯に冷たいウインナーを突き刺したものが定番でした。ほかほかのご飯に突き刺すことにより、冷たいウインナーが温まるっていう理論です。そんなご飯が僕にとっては普通だったんですけど、小学校で給食を食べるようになって、えらくおいしいなぁと思って。「じゃあ自分で料理したほうが早いな」と思って料理をするようになりました。特に誰かに習ったわけではないですけど、苦労は正直ありませんでしたね。

――お母様とはどのように関わっていらっしゃいましたか?

徳井 引きこもった部屋のドアの隙間から1万円札と買い物リストが出てくるんですよ。それを僕が受け取って買い物に行くのが、唯一のコミュニケーションでした。色々なヤングケアラーの方のお話を聞くと、家族に愛があった中でヤングケアラーになってしまうパターンはすごく残酷で辛いと思うんです。でも僕は正直、そんなに家族愛がなくて。父親からも母親からもあまり愛を受けて育っていないと思っているので、母親が引きこもってしまったからといって悲しいと思ったことは一度もありません。ただ生活していく上で母親がいないから自分がやる。それだけなんですよね。

――愛を受けていないと感じるようなご関係だったのですね。ご両親に甘えた記憶もありませんか?

徳井 父親も仕事ばかりの人でしたから、あまり関わってすらいなかったかもしれないです。これはヤングケアラーあるあるらしいんですけど、僕は甘えるとか人に頼むということができなくて。だから“パンクしたときが終わり”ってパターンが多いです。寝ずに家事や仕事をしているから、動けなくなって倒れるんです。僕、分からないんですよ。“自分が今どれくらい体力のゲージが減っているか”とか、“どれくらいテンパっているか”とかが。一日経って寝たときに「あのとき限界だったなぁ」と分かるんですけど、そのときには自分の疲れ具合が分からないんですよね。

――限界が分からないというのは、ヤングケアラーになってからですか?

徳井 そうですね、たぶん後天的なものです。だって、僕が倒れたら家が終わるじゃないですか。学校にも行けなくなるし。小さい頃から自分が倒れることが許されない状況がずっと続いていたので、自分の感情は…なくなりましたね

家族が壊れるか自分が壊れるか。自ら選んだヤングケアラー生活の終焉

――家庭を支えながらでは学生らしい生活ができない気がしますが、どのような生活を送っていらっしゃったのですか?

徳井 中学2年生まではバレー部でレギュラーになりたかったので、朝練・夕練に加えて自主練もやっていました。朝6時からある朝練の前に朝食を作って家を出て、授業を受けて夕練をやって、18時に帰ってきて夕食を作る。そこから買い物をして、お風呂に入って、勉強して、寝る。そんな生活でした。母親の病状が悪化した中2から北海道に引っ越したんですけど、それまでは自宅から歩いて通える唯一の高校が進学校だったので、そこに行くために勉強も頑張っていました。でもその生活も楽しかったので、辛くはなかったです。

――辛くなかったとはいっても大変な生活ですよね。ご自身の状況を誰かに相談しようとしたり、友人と比べて違和感を抱いたりしたことはありましたか?

徳井 相談しようと思ったことはないですね。全然困っていないから、辛くないんですよ。友達の家に行くとお母さんが「ご飯だよ」って声を掛けてくれるのを「作ってくれるのか。楽でいいな」とは思っていました。「そっか、俺もそろそろご飯作んなきゃな」って思うぐらいでしたけど。親戚ともほとんど関わり合いがないから他の生活を知る機会もなくて、自分が変わっているっていう意識がなかったんです。その生活が当たり前のことだったので

――ヤングケアラー生活はどのように終わりを迎えましたか?

徳井 18歳になって、「このまま北海道に残ると俺は壊れるだろうな」と思ったんですよ。3ヶ月に1回程度は母親が入院するくらい暴れまわっていたので、家のことを考えれば就職先も地元で探すしかない状況でした。僕が居なくなったら家が回らないとは思っていたけど、「家族が壊れるか自分が壊れるかの2択だな」と思って上京を選びました。家族に愛情がある人はすごく辛いと思うんです。そういう人は、たぶん自分の人生を家族に献上してヤングケアラーのまま大人になるんだと思います。でも僕は、もういいやと思って。正直、芸人になりたいと強く思っていたわけではないです。とにかくあの家から出たくて、出るなら近場じゃなく東京しかないと思って。だから、1回家族を捨てるつもりで上京しました。

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徳井健太(平成ノブシコブシ)

漫才コンビ(平成ノブシコブシ)

小6の時、父の単身赴任が要因となり母が精神疾患に。引きこもる母に替わり、妹の世話と家事・学業を両立。当時は“ヤングケアラー当事者”である認識もなかったが、芸人活動を始めた頃より自覚。講演では自身の体験全てをさらけ出し「誰もが明るく生きる」ヒントを提示している。著書『敗北からの芸人論』。

講師ジャンル
社会啓発 福祉・介護

プランタイトル

「僕、ヤングケアラーでした。」

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