コロナ禍やDXにより、今企業に変革の波が押し寄せてきています。
「この変革の波に乗り、ピンチをチャンスに変えるために今何をすべきか。そのヒントは、渋沢栄一の経営理念にある」
と言い切るのは、経済評論家の岡田晃さんです。
講演では、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』でも注目を浴びた渋沢栄一の生き方、そして、企業人としての功績を振り返りながら、SDGsにも通じる渋沢栄一の経営理念を解説していただきます。そこには、激動の時代に勝ちぬくためのヒントが隠されていました。
【監修・取材先】
岡田晃氏
大阪経済大学特別招聘教授・経済評論家
元 テレビ東京「WBS」 プロデューサー・解説委員長
元 日本経済新聞社 編集委員
今日に通じる渋沢栄一の生き方と経営理念
コロナ禍以降、ウクライナ戦争、イスラム諸国の紛争、ロシア・中国の関係性など、私たちの生活だけではなく、企業の経済活動にも大きなダメージを与えました。同時に、経済界にも大きな変革の波を起こしました。
DX(デジタルトランスフォーメーション)、テレワークの推進、サプライチェーン改革…。考えてみると、日本の経済構造が大きく変わろうとしている「今」は、ちょうど渋沢栄一が生きた近代化幕開けの時代に似ているかもしれません。
渋沢栄一は、さまざまな危機を乗り越え、500社ほどの企業(設立支援を含む)を設立し、日本経済の基礎をつくりました。そんな渋沢栄一のピンチをチャンスに変える生き方、経営理念をご紹介したいと思います。
波瀾万丈の前半生、何度もピンチに直面
渋沢栄一は明治初期に大蔵省の役人から実業家に転じ、数多くの企業を設立し、昭和初期まで財界のリーダーとして活躍した人物です。彼が設立した500もの企業の多くが発展し続け、非常に名の知れた企業として現在も存続しています。
それだけを聞くと、大変恵まれた人生だと思われるかも知れませんが、実のところ彼の人生は波瀾万丈でした。ここで、渋沢栄一の前半生を振り返ってみましょう。
渋沢栄一は1840年に、染料である藍玉の製造販売なども手がける豪農の長男として生まれました。栄一は幼い頃から家業を手伝いながら学問を学び、また、剣術の稽古にも励んでいました。その頃、長年の幕藩体制の矛盾が表面化し、民衆の不満が噴出。全国各地で百姓一揆や打ちこわしが起こっていた時期でした。ペリー来航(1853年)を機に幕府が開国に踏み切ったことへの反発も広がり、桜田門外の変(1860年)が起きるなど、不穏な空気に包まれていました。
このような時期に青年期を過ごした栄一は、2度の江戸遊学で尊王攘夷の思想に目覚めていきました。そして1863年秋、23歳の時でした。遂に栄一は、約70人の仲間とひそかに攘夷決行を計画します。高崎城を乗っ取って武器を奪ったうえで、横浜の外国人居留地を焼き討ちにし、外国人を片っ端から斬り殺すというとんでもない計画でした。
しかし、京都の情勢を探っていた従兄の尾高長七郎が急きょ深谷に帰郷し、「先日の文久の政変で、長州が京都から追放された。今は攘夷派に不利な情勢であり、すぐに討たれるだけだ」と中止を強く主張しました。最初は決行を譲らなかった栄一も、最終的には断念。後に、「もし計画を実行していたら、自分らの首は飛んでしまったであろう」と回顧しています。これが最初のピンチでした。
中止はしたものの、計画発覚を恐れた栄一は京都に逃れます。京都では、江戸遊学中に知り合った一橋家の家臣・平岡円四郎から天下の情勢について詳しく教わり、幕府の動静についても情報を得るなどしていました。攘夷そのものは諦めていなかったようです。
ところが翌1864年、長七郎が誤って通行人を殺害して捕まったのをきっかけに攘夷決行計画の嫌疑がかかり、疑いの目は栄一にも向けられました。ピンチは続いていたのです。
しかし、ここで意外なことが起きました。平岡が「この際、一橋の家臣になってはどうだ」と勧めてくれたのです。以前から、平岡は栄一のことを評価してくれていたのでした。おかげで栄一の命は助かったものの、一橋家は将軍の跡継ぎにもなり得る徳川御三卿の一つ、栄一にとっては不本意なことでした。それでも栄一は気持ちを切り替え、一橋家が所有する領地の産業振興や財政改革を積極的に行い、一橋家に大きく貢献します。
それから2年後の1866年、一橋家を継いでいた徳川慶喜が第十五代将軍に就き、一橋家の家臣であった栄一も幕臣となりました。自分が「かつての敵」の一員になったわけで、さすがに受け入れられず、「もう浪人になろう」と決断しました。
ところがその矢先、翌年(1867年)開催されるパリ万国博覧会の幕府代表団の一員として随行を命じられます。いわば、ピンチの最中に、チャンスが転がり込んできたのです。しかし、それは、栄一が一橋家で懸命に働いた実績を評価されていたからこそでした。ピンチに陥ったり挫折しても、あきらめたり不貞腐れたりせずに、全力で仕事に向き合うことがいかに大事かがわかる出来事でした。
欧州を訪問した栄一は、各国の経済・金融・産業構造について学び、見識を広げていきました。この経験が明治以降の活動に活かされていくことになります。
しかし、ヨーロッパの地でも栄一はピンチに陥っています。肝心の幕府が1868年に崩壊したのです。日本からの送金も途絶え、滞在費用にも事欠く有様となりました。結局、新政府の命令であえなく帰国します。
帰国後、栄一はしばらく、慶喜が謹慎する静岡藩に留まり、ここで一生を過ごそうと考えていました。そこへ明治新政府から出仕要請が届きます。一度は断りましたが、大隈重信に説得されて新政府入りを決心しました。これもまた不本意な転身でしたが、大蔵省に入った栄一は、欧州で知り得た知識をもとに、さまざまな制度の創設や改正を次々と打ち出していきます。日本初の大規模機械製糸工場である官営富岡製糸場の設立に携わり、国立銀行条例を起草、日本初の銀行を設立するなど、近代日本の経済基盤をつくっていくのです。
このように何度もピンチに直面しながら、たとえ本意でなくても与えられた使命を最大限にやり遂げ、周囲からの信頼を勝ち取っていった渋沢栄一。周囲の助けを得ながら、挫折で得た教訓を活かし、新たな道を切り拓いたのです。ピンチをチャンスに変えた栄一の姿勢は、変革の時代である現代を生き抜くためのロールモデルになるのではないでしょうか。
「現代版合本主義」が日本経済復活のカギに
栄一は500社にものぼる企業を設立します。それらはいずれも「合本主義」と「道徳経済合一説」の理念に基づいていました。
「合本」とは株式会社のことです。当時の日本では、商売は商人が家業として単独で行うのが常識で、複数の商人が出資して1つの事業を行うという考えはありませんでした。栄一は、パリ万博随行時にこの「合本」の存在を知ります。
フランスへの航海中に目にしたスエズ運河、これまで見たことのない壮大な工事は、合本組織(会社)の集めた資金によって遂行されている。栄一にとって、この事実は衝撃でした。
「一つ一つ小さな滴でも集めれば大河となれる……」
この合本主義の考え方は、これからの近代日本を作るのに大きな力となるに違いないと、栄一は考えます。そこで、合本主義に則り、日本初の銀行となる第一国立銀行の設立に着手。当時、株主を募集した際の新聞広告には、資金を集めるだけでなく、それを通じて多くの人の知恵と力を集め、日本経済の発展、その先には日本を変えようという高い志がうかがえます。
銀行は大きな河のようなものだ。役に立つことは限りない。しかし銀行にまだ集まってこないうちの金(かね)は、溝にたまっている水や、ぽたぽた垂れている滴と変わりがない。時には豪商豪農の倉の中に隠れていたり、(中略)お婆さんの懐にひそんでいたりする。それは人の役に立ち、国を富ませる働きは現わさない。(中略)
ところが銀行を立てて上手にその流れ道を開くと、倉と懐にあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁昌するし、産物も増えるし、工業も発展するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての国の状態が生まれ変わったようになる。渋沢栄一が出した「第一国立銀行株主募集布告」(栄一の息子・秀雄による現代語訳)
この考え方は、現在にも通じるものです。
日本経済が元気になるには企業が強くなること、そのためには株式市場の活性化が、より重要になっています。ここに、多くの人の資金と力を結集するという今日的な意義があります。
さらに今ではインターネットを活用して少額の資金を募るクラウドファンディングなど、新しい合本主義の形が生み出されています。このクラウドファンディングは、コロナ禍がもたらした不況に喘ぐ企業・団体への支援手段にも使われました。
このような「応援経済」の流れと併せて、個人・企業・自治体・政府などが一体となり、オールニッポンの力を結集させ、日本経済全体を復活させていく必要があります。
今日のESGやSDGsの先駆け
栄一は約500社の企業を設立したほか、経済団体、国際交流・教育・福祉機関など600もの社会事業団体を設立しました。現・東京商工会議所である「東京商法会議所」、現・日本経済団体連合会(経団連)の「日本経済聨盟会」、一橋大学の前身である「商法講習所」、日本女子大学、現・日本赤十字社の「博愛社」、聖路加病院など、日本社会になくてはならない団体・組織名が名を連ねます。
特に、孤児や病人など生活困窮者の保護のために設立された東京養育院では、1931年に亡くなるまでの55年間、院長を務めました。一時は廃止の動きもありましたが、そんなとき、栄一は論語の教えを引用し、「政治は仁を行うことが肝要で、貧窮者を助け貧富の差をなくすことは公益である」と訴え続けました。
そこには、利益(私利)と公益の両立を求める「道徳経済合一説」という考え方があります。栄一の口述記録をまとめた『論語と算盤』には、「道徳経済合一説」を示す言葉がいくつも見られます。
「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は永続することができぬ」
「多く社会を益することでなくては、正径な事業とは言われない」
「多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬ」
栄一は、このような信念に基づき、高い道徳心と企業倫理の確立を企業人に求めたのです。これは、近年重要性が高まっているESG (環境・社会・ガバナンス)やSDGs(持続可能な開発目標)に通じる考えではないでしょうか。栄一の信念は、まさにそれらの先駆けといっても過言ではありません。
アフターコロナ時代の企業戦略とSDGs
コロナ禍は、新たな経済構造の変化を生み出しました。
- テレワーク拡大→業務見直し、働き方改革、雇用・人事制度改革
- 新常態への対応→新しい商品・サービス・技術、ビジネスモデル
- デジタル化の加速→DX推進
- 東京一極集中是正の兆し
- 「脱・中国」とグローバル・サプライチェーンの再構築、経済安保
- ESG、SDGsの重要性の高まり
企業でも今、SDGsへの対応が急務とされています。
SDGsへの実現には、大きな時間とコストが必要となりますが、企業がSDGsに取り組むことにより、新しい事業の開発や産業の発展を促進し、再生エネルギーを中心とした新たな社会構造と新しい雇用を生み出します。それによって飢餓や貧困が減少し、地球に住むすべての人々が幸せな生活を送れるようになるのです。
実際、SDGsに取り組む企業が株式市場でも社会的にも高く評価されるようになりつつあります。これこそ、渋沢栄一が唱えた「道徳経済合一説」そのものではないでしょうか。
「課題こそニーズ」~新たなビジネスチャンスをつかめ!
新しい変革の波で、さまざまな課題が浮上しています。例えば、コロナ禍でテレワークをはじめ、医療、教育、エンターテインメントなどさまざまな分野でオンライン化が進みました。この状況にうまく対応できない企業がある一方で、新たなビジネスチャンスと捉えて積極的にオンライン化を進めている企業もあります。このオンライン化は、東京一極集中から地方へと分散化できる機会にもなり得ます。「課題」が「ニーズ」となり、それを「ビジネスチャンス」につなげることもできるのです。
コロナ禍以降の現在の状況を、「禍」でなく「新しいチャンスの到来」と捉えることで、新たな産業や事業を生み出し、ひいては日本経済を復活させることができます。先人の“DNA”を受け継ぎ、アフターコロナ時代を生き抜こう!
ここまで、渋沢栄一の人生をヒントに、これからの日本経済のあり方を解説してきました。
激動の時代を生き抜いた先人たちは、大変な境遇にありながらも、よりよい道を求めて豊かな日本を築いてきました。そのようなピンチをチャンスに変えてきた先人たちのDNAは、私たちにも受け継がれているはずです。私たちは、この日本の底力に自信を持ち、自分自身の強みを再認識することで、この激動の時代を乗り切れるはずです。
コロナ禍では、ネガティブなニュースや意見があふれましたが、コロナ禍で強みを発揮して乗り切った企業もたくさんあります。うつむいていては目の前のチャンスも目に入ってきません。ぜひ前を向いて、お互いに協力し合い、共にこの荒波を越えていきましょう!
岡田 晃 おかだあきら
経済評論家
評論家・ジャーナリスト
難解な経済問題を身近な話題として分かりやすく解説する、元テレビ東京解説委員長。現在もテレビ番組のコメンテーターとして、国内外の経済情勢を解説。講演では、経済報道に携わってきた長年の経験を基に、昨今の経済情勢から今後の日本経済・世界情勢動きを解き明かし、先行きを展望する。
プランタイトル
渋沢栄一に学ぶアフターコロナ時代の企業戦略とSDGs
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