想定する対象者
広く一般
提供する価値・伝えたい事
22才で車いす生活になった当時は、障害者とは「諦めの人生」のように思っていました。リハビリから車いす陸上の世界大会で金メダル、そして射撃でアテネパラリンピック日本代表となる。車いすユーザーが仕事や家庭を持ち、スポーツをすることは今や驚かない社会となりました。さらに、自分の自立のみならず、他人の役に立ちたい、これが車い障害者が目指している目標です。車いすは不便だけれど不幸せではない。幸せは自分でつかみ取るもの。弱い私が強い心を持っていると言われるようになるまでの軌跡を話します。
内 容
“交通事故当日の話~リハビリ~結婚
1、22歳の時でした。銀行員からミスインターナショナル準日本、そしてファッションモデルへと。
そのモデルの仕事で桃園でカタログの撮影をしていました。
2、中央高速道路で東京に向かっていました。
運転席にはカメラマン、助手席は男性のデザイナー、私は後部座席で居眠りを・・
雨が降り始め、隣のトラックにぶつかりそうになり、急ハンドルを切ったその時、車は横転し、助手席のデザイナーは
即死、私は窓を突き破り、100メートル飛ばされた。
3、ケイヅイを損傷し、車イスの生活に。
4、自ら死を決意していた頃、付き合っていた恋人からの手紙
「5年、いや3年でもいいから頑張ってみよう。もしそれでも頑張れなければ
生きることに疲れたら、その時は一緒に死ねばいい」
5、この手紙を境に真実 生きる決意をする。
6、1年7カ月のリハビリを終え、「車イスの花嫁」として第二の人生を。
7、イギリスでの車イス陸上で金、銀、銅2つを取る。
その後、射撃でアテネパラリンピックに出場。
8、結婚の際、(一人っ子)の夫の母の言葉
「むすこにとって大事な人は私たちにとっても大事な人です」
9、婚約者の言葉
「ひとみにとって僕が必要なのではなく、僕にとってひとみが必要なんだ」
誰かに必要とされている、それが肉親ではなく他人から言われる、これが
どれほど私を励ましてくれたか、分かりません。
私が死にたいと思ったのは「歩けなくなったことではありません」
「もうこの世の中の誰からも必要とされていないと思ったとき」にむしょうに
孤独で寂しかった。これが死にたいと思った本当の理由です。
絶望~希望へ
リハビリで一番大変なことは肉体のリハビリよりも心のリハビリです。
それは「障害者を半人前だと思っている自分との闘い」です。
また、周りからの心ない言葉にも打ちのめされて、それでも 胸を張って
一人の価値のある人間だと、心底自分で思えた時に、本当の意味でのリハビリを終えました。
そして今、それを社会に貢献できること、企業のバリアフリーの商品開発
スポーツを通じて、また主婦として、辛いエピソード楽しいエピソードを
交えて一緒に考えましょう。
幸せと不幸せを隔てているものは何でしょうか?
業務外の講師への取次は対応しておりません。