想定する対象者
中学校生徒・教職員・PTA
自治体職員 人権教育担当者
市民一般
提供する価値・伝えたい事
カナヅチな人、音痴な人は、泳げない事や唄が下手な事に対して劣等感を抱く事はあっても、人間全体の価値まで劣っているとは考えないのが普通です。ところが、一旦、障害者となると、本人も周囲もその人間性すべてを否定的に考えてしまいがちです。横並び意識の強い日本社会の中で、等しいはずの人間の価値が、一部の身体的能力や、生まれ育った環境によってなぜ歪められてしまうのかを考察します。
内 容
怪我をして一番悲しかったことは、歩けなくなったことではありません。
もうこの世の中で誰からも必要とされなくなったのではないか、と思ったこと。
半人前の自分は、別の世界に取り残されたような、孤独を感じたことでした。
本来、人間としての価値は、体や生まれ育った環境や社会的地位で優劣があるものではなく、
等しいはずです。頭では、わかっていてもその劣等感がぬぐいきれず、苦しみました。
体のリハビリよりもその心のリハビリの方が困難でした。
今、私の腕は鍛え上げられ、並の女性より力持ちです。でも歩けません。
ある部分では人より劣っているけれど、逆に人より優れているところもあります。
皆様も、同じです。人より劣っているところ、優れているところがあります。
つまり、どこからどこまでが障がい者で、どこからが健常者か線引きができない、
する必要もありません。
障がいがあってもなくても、誰にでも可能性はあるはず。
いい訳は簡単にできますが、その可能性に期待をしてほしい。
人間の心は、障がいをもったことによって一生浮かび上がれなくなってしまうものではないと思います。
私自身は障がいをもつ以前よりもっと、成長をした生き方をしたいと考えています。
すべての人は、必要とされていて、一人の価値のある人間です。
ぜひ、自分の人生の主役になってください。
業務外の講師への取次は対応しておりません。